日本語と日本文化


大岡昇平「レイテ戦記」


大岡昇平は、「レイテ戦記」単行本あとがきの中で、この本を書こうと思い立ったのは昭和28年だったと言っている。大岡はその前に、「俘虜記」(昭和24年)と「野火」(昭和27年)を書いている。それらは、大岡自身の俘虜体験及びレイテ島における遊兵(あるいは敗残兵)の生き様を描いたもので、フィリピンにおける戦争を、いわば微視的に描いたものだった。それに対して「レイテ戦記」は、最終的に出来上がったものを見ると、レイテ戦についての包括的なクロニクルになっている。大岡は、自らも体験したフィリピン戦線での、日本兵たちの過酷な体験に巨視的な目をむけ、その体験とその意味とを、包括的・全体的に捉えようとしたのだと考えられる。

大岡がそう考えるようになったのは、「旧職業軍人たちの怠慢と粉飾された物語に対する憤懣も含まれていた」と大岡本人も言っているように、戦後になってから、旧軍のもと幹部将校による、自分の立場の弁明に終始しているような、欺瞞的な物語ばかりが横行するなかで、前線で死んでいった兵士たちの実情については、ほとんど語られることがなかった、そうした事情に大岡が疑問を感じたからだと思われる。「自分の父や兄や子が、どういうところで、どういうふうに戦って死んでいったか知りたい人は」多いはずなのに、それに応えてくれる人がほとんどいない。前線で敵弾の表に立った兵士たちは、死んでしまってもやは語れなくなってしまったか、生き残ったとしても、自分の体験があまりにも過酷で、語ろうにも語れないという事情が働いていた。それなら、そうした兵士たちに代わって、自分自身が戦場での出来事を、自分が知っている限りにおいて語っておきたい、自分も一下級兵士として、死んでいった兵士たちと同じように銃弾をくぐってきた、その体験を語ることは死んでしまった兵士たちへの手向けともなり、また、語る言葉を持たない帰還兵たちの代弁になるのではないか。大岡はそんな思いからこの戦記を書こうとしたのだろうと思う。この本を大岡は、「死んだ兵士たちへ」捧げているのである。

だが、大岡が執筆を思い立った頃には、レイテ戦についての資料も少なく、あまりに不明なことが多過ぎた。大岡は当初は、自分が収容されたレイテ島の捕虜収容所の日本兵たちから聞いた話をもとに、レイテ戦の過酷さを再現したいと考えたのだと思うが、それにしてもレイテ戦全体のイメージをはっきりと結ぶには資料が足らなすぎたのだろう。一旦作業を中止した。その後、昭和30年代半ば以降、ぼちぼちと日本側の資料が整うようになり、また米側の公刊戦史が出揃ったりして、レイテ戦の全体像が見えるようになってきた。その全体像の中に、大岡自身が体験したり見聞したりしたことがらをクロスさせることで、生きたレイテ戦記を描けるのではないか。こうした思いのもとに、昭和41年から執筆準備を始め、中央公論誌上に、翌年の一月号から連載を始めた。その連載は筆者もリアルタイムで読んだものである。

レイテ戦の全体像を簡単に把握するには、日米両軍の投入兵力と損害を見るのがわかりやすい。日本側は、レイテ島に直接投入した兵力が約84000、そのうち生還者は2500人である。他に(セブ島などへの)転出が2200、戦没は79000である。これはもう全滅と言ってもよい数字だ。このほかに、レイテへ向かう途中海没した兵士が10000人ほどあるから、レイテ戦で死んだ日本兵は9万ということになる。

これに対してアメリカ側は、25万人以上の兵力を投入している。日本側の三倍の兵力だ。このうち戦死が3500、戦傷が12000である。兵力数では日本の三倍で、戦没数はだいたい七分の一ということになる。地上兵力のほかに、日本海軍が致命的な敗北を喫していることを考え合わせると、日本はかなり一方的に負けたという印象を与える。こうまで酷い負け方を強いられるような戦争を、日本はどのような理由で、またどのような方法で戦ったのか。大岡は、そうした戦局全体にかかわるような問題意識を適宜提起しながら、レイテで行われた日米間の戦闘と、そこにおける日本兵の戦いぶりについて、作家らしい想像力を交えながら展開してゆくのである。

こうしたわけであるから、大岡の執筆姿勢は、軍部に対する批判とか、兵士たちへの人間的な同情とか、そんなに単純なものではない。軍部もただの阿呆ではなかろうから、それなりの論理に従って戦争を展開していったのであろうし、個々の兵士たちは、その殆どが祖国を守るという、崇高な感情に動かされて戦い死んでいった。わずか二ヶ月の間に展開されたこの壮大な戦争を、軍部を中心にした戦争の論理と、戦争に従った個々の兵士たちの生き様とを絡ませあいながら、多角的に描き出したい。というのが大岡の思いだったに違いない。

大岡は、レイテ戦敗戦の責任を「全部軍人の責任にするつもりはない。こういう事態について、責任の体系はありえない」といって、とかく軍の幹部にのみ戦争責任を押し付ける風潮に批判的だが、その一方で、戦後自分の責任を言い逃れるような言説が旧将校を中心に出回っていることにも批判の目を向けている。また、戦争責任の問題にしろ、戦争における個々の勝利(たとえば真珠湾攻撃だとかマレー半島攻略など)にしろ、それらをもっぱら軍の将校の問題として矮小化することには常に反発している。戦争を戦ったのは、個々の兵士なのだ、とするのが、大岡の基本的な立場なのである。だから、大岡は言う、

「山本五十六提督が真珠湾を攻撃したとか、山下将軍がレイテ島を防衛した、という文章はナンセンスである。真珠湾の米戦艦群を撃破したのは、空母から飛び立った飛行機のパイロットたちであった。レイテ島を防衛したのは、圧倒的多数の米兵に対して、日露戦争の後、一歩も前進していなかった日本陸軍の無退却主義、頂上奪取、斬込みなどの作戦指導の下に戦った、十六師団、第一師団、二十六師団の兵士たちだった」

このように言うと、大岡は日本軍の将校の責任に対して甘いと見られがちだが、大岡自身は、無能で無責任な将校に対しては、非常に批判的なのである。その一方、無能な将校の命令に黙々と従い死んでいった兵士たちには鎮魂の気持を捧げている。たとえば、神風特攻に関連して、大岡は次のように書いている。

「この戦術はやがて強制となり、徴募学生を使うことによって一層非人道的になるのであるが、私はそれにも拘らず、死生を自分の問題として解決して、その死の瞬間、つまり機と自己を目標に命中させる瞬間まで操縦を誤らなかった特攻士に畏敬の念を禁じ得ない。死を前提とする思想は不健全であり扇動であるが、死刑の宣告を受けながら最後まで目的を見失わない人間はやはり偉いのである。醜悪なのはさっさと地上に降りて部下をかり立てるのに専念し、戦後いつわりを繰り返している指揮官と参謀である」

大岡はレイテ戦記本文の最後を次のような言葉で結んでいる。「死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである」




  
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