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第30師団及び第102師団:大岡昇平「レイテ戦記


第30師団及び第102師団は、いずれも第35軍指揮下の部隊として、第30師団はミンダナオ島に、第102師団はセブ、ネグロス、パラワン、パナイ、ボホール島からなるビサヤ諸島に配置されていた。この中から、第30師団から一個連隊(41連隊)が、第102師団から二個大隊がレイテ島に派遣されることとなり、10月26日から同30日にかけて、オルモックに上陸した。その直後には、第一師団がオルモックに上陸している。

第30師団及び第102師団は、カリガラ湾南方への進出を命ぜられる。第一師団がリモン峠において米軍の主力と正面対決をしている間、右翼から米軍の腹を突く役割を担ったわけだが、この二つの部隊はあまり役割を果たしていない、特に第102師団にはまともな戦闘の形跡がないといって、大岡はやや厳しい見方をしている。12月21日に全面転進命令が出るまで、カリガラ湾の南方にあるピナ山周辺の山地に展開して、時折米軍と戦闘を交えるということを繰り返していたようだ。

第30師団からは、41連隊に続いて77連隊もレイテに上陸するはずであったが、どういうわけか船が途中で行方不明になるなどして、予定よりも大幅に遅れてレイテに上陸した。それも12月7日以降のことで、レイテ島決戦が事実上終わったあとであった。77連隊の一部は、12月7日にオルモックのやや南にあるイピルに上陸したのだが、それと前後して米軍がイピル南方に上陸している。両部隊の間に激しい戦闘があったようだ。77連隊の残存部隊(基幹部分)は、二日後にオルモック西方のパロンポンに上陸したが、こちらは敗色濃厚な35軍を目の前にして、戦いどころではなかったようである。ともあれ、翌年カンギポットに集合した日本軍の中で、この77連隊の生き残りはわずか18名だったという記述があるから、ほぼ全滅に近い状態だったといえる。なお第30師団全体としては、5300人の兵力をレイテに投入し、そのうち戦後本土に生還したのは240人だった。

30師団の戦いぶりは、上記のようにあまり芳しいとはいえないが、第102師団にいたっては、ほとんど戦いらしいものをしていないのではないかと、大岡は疑念を向ける。その理由の一つとして、大岡は師団長福栄中将の姿勢をあげる。福栄は、師団長を先頭にしてレイテ戦に加わるべしという軍の命令でレイテへ上陸したが、内心は気乗り薄のようで、35軍の参謀に向かって、いつセブの本隊に帰れるのかと言ったというのだ。これは、彼のやる気のなさが現れたものだというわけなのだろうが、もっと悪いことには、彼は35軍がカンギポット周辺に集結して体勢を立て直そうとがんばっているときに、独断で自分だけがレイテを脱出し、セブへ行ってしまったのだ。これは軍律違反であることは無論、敵を前にした臆病な行為というべきであり、非難されるのは当然だと大岡は捉えているようである。「ようである」というのは、福栄は戦後、シンガポールでの華僑大虐殺の責任を取らされ、戦犯として銃殺されているからである。死んだものに鞭を打つのは潔くないという感覚が働いて、大岡の福栄批判は先鋭化しないのだと思われる。

大岡はまた、福栄の判断があながち誤っていたとばかり言い切れないとも言っている。第102師団はもともとフィリピンにおける警察活動みたいなものを本務としており、したがって戦闘のための本格的な訓練を受けていない。そんな状態で、敗色濃厚なレイテにいつまでとどまっていても意味はない、それよりもセブの本隊に戻って、本務である警察行動をしたほうがよほど気が利いている。こんな判断を福栄がするには一定の理由があるわけで、あながち彼を責めるばかりが能ではないだろうというわけだが、それにしても、上官の許可を受けずに、独断で行動したのは、軍律違反として責められねばならない。まして、参謀だけをつれてセブに向かったのならともかく、護衛要因として多くの兵士を連れて行っている。これは二重に許しがたい行為だとして、35軍の鈴木司令官を激怒させ、福栄は自分の師団の指揮権を剥奪されてしまうのである。これは、レイテ戦線にかぎらず、大戦中における陸軍の最も不名誉な出来事と言ってよい。そう大岡は言うのである。

福栄中将の行動には、あるいは恐怖心があったのかもしれない、と大岡は匂わせている。人間というものは、絶望的な状況に追い詰められると、とかく恐怖感に捉われがちなものだ。その例を、大岡は他にもいくつかあげている。たとえば第一師団の野砲兵連隊や工兵連隊において、おそらく恐怖感にとらわれるあまり、大隊ごと戦線を離脱した例があるが、これなどは大隊長の捉われた恐怖感にその理由があったのだろうと大岡は推測している。これらの大隊は、その後、報復とも言えるような過酷な扱いをうけることになるが、こうした行動は、日本軍ならずとも、どの国の軍隊でも許せないことなのだと言えよう。福栄中将の場合には、レイテ島の兵士の士気に悪い影響を及ぼしたのでなおさらである。「事件のうわさはカンギポット周辺から脊梁山脈の中までひろまり、レイテ島上の兵士の士気に影響があった。鈴木司令官自身が脱出したと誤り伝えられて、多くの遊兵に戦線離脱を正当化する口実を与えた」

なお、第102師団がレイテ島に送った兵力は3100人、うちセブに転進したもの50人、レイテ島で生き延びて戦後本土に復員したものは270人である。生還者の割合は30師団より多少いいが、それでも9割が戦没したことになる。


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