日本語と日本文化


比島沖海戦:大岡昇平「レイテ戦記」


「この戦記の対象はレイテ島の地上戦闘であるが、十月二十四日から二十六日まで、レイテ島を中心に行われた、いわゆる比島沖海戦は、その後の地上戦闘の経過に、決定的な影響を与えているので、その概略を省くわけにはいかない」。大岡は、レイテ戦記の第九「海戦」の冒頭をこのように書いて、所謂比島沖海戦の模様を、かなり詳しく書いている。

この海戦は、大岡の言うような、レイテ島の地上戦への影響にとどまらず、太平洋戦争をめぐる日本の命運を左右するほど重要な意義を持ったものだった。十月二十日に米軍がレイテ島に上陸したことは、日本にとっては、南方戦線が分断されるとともに、本土防衛が危殆に瀕することを意味した。このままフィリピンをアメリカ側に制圧されれば、日本の敗戦は一気に現実味を帯びる。なんとしてでも阻止して、フィリピン全体を日本の支配下に取り戻さねばならない。こんな危機意識のもとに、日本軍は全力を挙げてフィリピン防衛に立ち上がった。比島沖海戦は、そうした悲壮な計画の重要な部分を担うものだったわけである。

日本は、海軍のほとんどすべての残存能力を比島沖海戦に投入した。作戦に参加した戦力は四つの艦隊に分けられる。スマトラのリンガに停泊していた連合艦隊の主力、これには大和、武蔵、長門など、日本の誇る重量級の戦艦が含まれていた。司令官の名を取って栗田艦隊と呼ばれる。二つ目はボルネオのブルネイに停泊していた艦隊、これは西村艦隊と呼ばれ、老朽戦艦二隻を中心にした弱小艦隊であった。三つ目は内地に停泊していたもので、小沢艦隊と呼ばれる。これは空母四隻を中心にして戦艦や駆逐艦など十数隻からなる艦隊であった。四つ目は南西諸島にあったもので志摩艦隊と呼ばれる。これは巡洋艦三隻と数隻の駆逐艦から成る艦隊であった。

当初の計画では、志摩艦隊を囮として米艦隊をフィリピン北方海上におびき出した上で、小沢艦隊がこれを攻撃している間に、栗田艦隊が中心になってレイテ島周辺の米輸送艦隊の攻撃とレイテ島東海岸(レイテ湾)の米地上軍に対する艦砲射撃を行い、レイテ島上の日本軍を援護するというものだった。だが最終的に決定された作戦は、小沢艦隊が囮になって米艦隊を北方海上にひきつけている間に、栗田艦隊はサンバーナーディノ海峡を通ってレイテ湾へ向かい、西村艦隊と志摩艦隊はスリガオ海峡を通ってレイテ湾に抜け、南北両側から挟み撃ちをするような形で、レイテ湾周辺に展開している米艦群への攻撃とレイテ島東海岸への艦砲射撃を行うということになった。もしもこの作戦が成功していたら、レイテの地上戦はもっと楽なものになっただろうし、場合によっては、太平洋戦争の帰趨に一定の影響を与えたかもしれなかった。しかし事実は、日本海軍は敗北し、南方海上での制海権と制空権を失い、敗戦への道をまっしぐらにたどることになったわけである。

大岡は、海戦の展開を継時的に追いながら、各艦隊の戦いぶりについて評価している。まず、栗田艦隊。これについて大岡は、かなり厳しい見方だ。栗田艦隊は、リンガ泊地を出た後、ルソン島南方のシブヤン海を通り、サンバーナディノ海峡(ルソン島とサマール島の間)を通ってレイテ湾方面に向かうことになっていた。しかし、シブヤン海峡の手前で米航空機編隊の攻撃を受けたのを手はじめに、シブヤン海では戦艦武蔵を撃沈されるという目にあった。そのためか、艦隊は一旦反転して引き返すような行動をとった。この行動は友軍に大きな影響を与えた。西村艦隊は、栗田艦隊がサンバーナディノ海峡を抜けるのとほぼ同時にスリガオ海峡(レイテ島とミンダナオ島の間)を抜けることになっていたが、栗田艦隊が反転したことを知ると、単独で海峡に突入した。これは大岡には、死に急ぎとして映った。西村艦隊は、待ち受けていた第七艦隊によって、完膚なきまでに殲滅されてしまったのである。もし栗田艦隊と同時行動をとっていたら、敵の力を分散させ、西村艦隊への攻撃をもっとむつかしくしただろうというのがその理由である。

栗田艦隊は、この反転を含めて四度も反転している。なぜそんなことをしたのか、と大岡は疑問を呈している。戦局にもっとも重要な影響を与えた反転は、サンバーナディノ海峡を抜けた後で、レイテ湾に直行せずに、そのまま戻ってしまったことだ、と大岡は見る。このとき、レイテ湾の北部を受け持っていたハルゼーの第三艦隊は、囮艦隊である小沢艦隊に気を取られて、全力をあげて北上し、レイテ沖防衛という重大任務を、いわば放棄した状態だった。一方、南側に展開していたのは、戦力の低い航空母艦艦隊であり、栗田艦隊がその気になれば、十分撃滅できる相手だった。栗田艦隊としては、理想的な状況が生まれていたわけである。ところが栗田艦隊は、そのチャンスを生かすことなくおめおめと引き返してしまった。これは、不可解と言うより、許しがたい行動だと大岡は言うのだ。

栗田艦隊にこうした行動をとらせたのは「恐怖」だったとまで大岡は言う。栗田艦隊は恐怖に駆られる余り、客観的な戦局分析ができなかったし、また、いざというときになって果敢な行動を取れなかったと。これは実に厳しい言い方だ。後に生き残った栗田艦隊の将校たちが、いろいろな言訳をしているが、それはみな自分の恐怖心をごまかすためでしかない、とまで大岡は言うのである。「これら疑わしい証拠の蓄積、長官幕僚の混乱した証言、弁明、言替えの群から浮かび上がってくる事実は、栗田艦隊の戦意不足、レイテ湾に突入の意思の欠如ということであろう」と言うわけなのである。

栗田艦隊の戦意喪失の理由について、大岡は米側資料(フィールド「レイテ湾の日本艦隊」)を援用しながら分析を加えている。「フィールドも日本の作戦を賞賛しているが、ただ全体として、現代戦を戦うために必要な『高度の平凡さ』がなかった、と言っている。巨大化され、組織化された作戦を遂行するには、各自が日常的な思考の延長の範囲で行動できるのが、錯誤の生じる余地を少なくする。囮とか突入とか、異常な行動で組み立てられていた捷一号作戦(比島沖海戦のこと)にはそれがなかったから、うまく動かなかった」としたうえで、無理の積み重ねが判断に狂いを生じさせ、それが結果的に戦意喪失につながったのだろうと大岡は推測するようなのである。しかし判断の狂いと恐怖心とは、一応は別の事柄だ。栗田艦隊の幹部たちがなぜ恐怖心に捉われてしまったのか、もっとつっこんだ考察が必要と思われるところだ。

そうした考察のひとつの材料としてか、大岡は、戦場としての艦船の過酷さは地上のそれよりもはるかに厳しいという事実に触れている。たとえば、戦艦武蔵が撃沈されたときの艦内の様子を次のように書く。「空から降ってくる人間の四肢、壁に張り付いた肉片、階段から滝のように流れ落ちる血、艦底における出口のない死、などなど、地上戦では見られない悲惨な情景が生まれる。海戦は提督や士官の回想録とは違った次元の、残酷な事実に充ちていることを忘れてはならない」。たしかにこんな情景を目にしたら、しかもそれが例外的な事件ではなく、日常的な出来事として迫ってきたら、したがって日常と異常の境がなくなってしまったら、戦意が喪失するのも無理はないかもしれない。

栗田艦隊に対する厳しい評価とは反対に、小沢艦隊についての大岡の評価は高い。小沢艦隊は囮としての役割を十分に果たし、米軍の攻撃部隊の主力であったハルゼーの第三艦隊を釘付けにした。それによって生まれたチャンスをもし栗田艦隊が活用できていたら、比島沖海戦は違った経緯をたどった可能性が高い。そうは成らなかったのは、栗田艦隊の責任であり、小沢艦隊には何らの責任もないばかりか、期待された以上の効果を生み出した。空母四隻は沈められてしまったが、戦艦日向以下九隻の軍艦を内地に連れて帰ったのは大できだったと手放しの評価だ。

志摩艦隊については、これの本来の使命は、西村艦隊と共に行動することにあったわけだが、何故か途中で進行するのを止めて、その場でうずくまってしまうような行動をとった。これには色々な見方があるだろうが、かりに志摩艦隊がそのまま進行していても、西村艦隊同様に返り討ちになるほかなかったし、また、その場でうずくまることで、敵の関心をひきつけたことは、栗田艦隊に余裕を持たせることにつながると言う意味で、囮としての役割を果たしたことになった、として、大岡は肯定的に評価している。

以上は現場水域での各艦隊の動きとそれへの大岡の評価である。一方、これらの艦隊を中央で指揮していたのは、豊田連合艦隊司令長官で、指令場所は東京の日吉台の地下壕にあった。このことについて、せめて台湾あるいはマニラまで赴くべきだったと非難する人がいるが、それは感情的な言い分だと大岡は言う。長官は何も身の安全のために東京から指揮したのではなくて、戦局を客観的に判断できるという理由からそうしたのだ。当時の海戦は、情報がすべてを左右する。その情報をもっともよく管理できる場所として東京の日吉台を選んだのだろうと言って、大岡は豊田長官を擁護する側にまわっている。




  
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