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レイテ島日本軍の壊滅:大岡昇平「レイテ戦記」


レイテ島上日本軍の壊滅を決定的にしたのは、12月7日の米軍のオルモック湾上陸と同15日のミンドロ島上陸である。米軍のオルモック湾上陸によって、レイテ島上の日本軍は拠点を失い、全軍の司令部までが放浪するようになる。また米軍のミンドロ島上陸によって、大本営はレイテ島の放棄を決意するに至る。米軍のフィリピン攻略と日本本土攻撃が俄かに現実味を帯び、レイテ島の防衛どころではなくなったからである。

こうした動きを踏まえ、35軍の司令部は管下部隊に対して転進命令、つまり全面的な退却を命ずるに至る。退却といっても、レイテ島の中にはどこにも行くべきところなどない。自分たちで工夫して生き残れということである。

かくして10月20日の米軍上陸に始まったレイテ決戦は、ほぼ二ヶ月を経て帰趨が決し、マッカーサーは12月26日にレイテ戦は終了したと宣言した。その時点でレイテ島上には二万人ほどの日本兵が残っていたはずだと大岡は言っている。

転進命令が正式に伝わったのは第一師団と102師団だけで、残りの部隊は噂や気配などを通じて友軍の動きを知った。その動きとは、とりあえずカンギポット周辺に日本軍が集結するというものだった。

この転進はかなり辛いものであった。とりわけ、オルモックから遠く離れた部隊、特に16師団にとっては、カンギポットまでの長い道のりを、飢えと戦いながらの行進となった。その状況を大岡は次のように書いている。

「敗走の模様は、数少ない生還者の断片的な記憶にしか残っていない。山中到る所に白骨化した日本兵の死体があった。それを通路であることを示す道標として進んだという。靴も地下足袋も破れ、大抵の兵は裸足であった。小銃を持っている者も棄て、生きるための唯一の道具、飯盒だけ腰にぶらさげた姿になった。病み疲れて、道傍にうずくまっている兵がいる。彼等は通りがかった兵に向かって、黙って飯盒を差し出す。まったくの乞食の動作であった。歩く力を残した兵士も飢え疲れていて、人に与えるものは持っていない。なにもくれはしないのを、乞食の方でも知っている。従って彼等はひと言も口をきかず、その眼には光はない。ただ飢えがとらせる機械的な動作を繰り返すにすぎないのである。彼等は次第に死んでいった」

こうした話を大岡は、主にタクロバンの捕虜収容所で、日本兵の生き残りから聞いたのだと思われる。その時に聞いた話を元にして、「野火」を書いたのだと思う。「野火」には、上記のような敗兵たちの無残な姿が描かれている。

カンギポット周辺に集合した日本兵の数の詳細はわかっていない。大岡は、友近参謀長が後に米軍の尋問に答えた話として、数字をあげているが、これも一万数千という漠然としたもので、詳細は明らかではない。

軍では、カンギポットに集合した敗兵の一部を、地号作戦と称してセブに転進させる計画を実行する。この計画で第一師団の兵ら約750人がセブに渡ったほか、102師団から師団長以下50人がセブに渡った。これとは他に、4月に入ってから、鈴木司令官以下35軍の幹部がセブに渡ろうとして、途中鈴木司令官が米機の機銃掃射をうけて死亡したことは先述したとおりだ。この時に、友近参謀長の乗った船は、ミンダナオ島のカガヤンに到着している。この行動については戦後大いに批判が集まったが、大岡もそれを、「要するに、激戦地を避けて逃げ出したというだけではないか」と言って批判している。大岡が友近に対して厳しいのは、あるいはこういうところに原因があるのかもしれぬ。

かくしてカンギポット周辺には、最終的に1万人の日本兵が取り残されたと大岡は言う。これらの日本兵は、米軍の討伐作戦や飢えと戦いながら、自給自足しながらの持久戦をしなければならなかった。持久戦とはいっても、未来の展望は全くない。ただ生き残ることだけが目的となった。しかし、それさえも彼らにはかなわなかった。8月15日以降、カンギポットとその周辺の山中から降りてきた日本兵は一人もいなかったのである。彼等は、おそらく飢えが原因で全員が死んだのだろうと大岡は推測する。たしかにその通りだろう。生きたままどこかに消えるということは、荒唐無稽な話であるから。

レイテ戦の英雄である今掘大佐の最後の様子が、奇跡的に帰還した東島大尉の報告で明かになっている。大佐は七月四日に、「下痢と栄養失調のため、行動不能に陥った。同日21・00軍旗焼却、22:00拳銃で自殺した」

この時点では、16師団長牧野中将、26師団長栗栖少将、68旅団長沖少将らはまだ生きていたはずだと大岡は言っている。だが彼等の最後は全くわかっていないと言う。この頃になると、部隊の編成は崩壊し、兵らは少数の集団に分かれて自給自足していたと思われる。そのほうが食料調達のうえで便利だからである。運のいいグループは命を少しでもつなぎ、運の悪いグループは速やかに飢えて死んだのであろう。要するに、まともな人間関係が完全に崩壊したのである。

「こういう孤独な人間関係のうちにあって、兵はたやすく自殺したという。食料入手の見込みがない、あるいは一番大事な脚の負傷が癒らない、あるいは下痢が癒らない、というような単純な理由で、病兵は突然群から離れて手榴弾(がもし残っていれば)を抱いて自爆した。あるいはバンドを木の枝にかけて、縊死してしまった。しかし自殺する気力もなく、叢林中に横たわって、息をしている状態で俘虜となった者が多かった」

こうした兵士が続出したのは、兵を牛馬のようにしか考えない日本の軍部の野蛮な体質のためだと大岡は強く批判する。「徴集制度は、近代の民族国家の成立の根本条件であるが、それが政治と独立した統帥権によって行われる場合、反対給付を伴わない強制労役となる。そのように日本の旧軍隊は徴募兵を牛馬のように酷使した・・・フィリピンの戦闘がこのようなビンタの精神棒と、完全消耗持久の方針の上で戦われたことは忘れてはならない」

大岡はそのように言いつつも、戦争を戦った個々の兵士については、深い尊敬の念を向けている。「多くの戦線離脱者、自殺者が出たのは当然だが、しかしこれらの奴隷的条件にも拘らず、軍の強制する忠誠とは別なところに戦う理由を発見して、よく戦った兵士を私は尊敬する」


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