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レイテ戦緒戦と第十六師団:大岡昇平「レイテ戦記」


レイテ島に米軍が上陸したのは昭和19年10月20日である。その時島を防衛していた日本軍は第十六師団の18600人であった。16師団はもともとルソン島の南部を担当していたが、レイテ島に米軍が上陸する可能性が高まったことを受けて、急遽レイテ島に転進したのだった。師団長の牧野四郎中将は、同年3月に着任し、同年9月には師団と共にレイテ島に移った。早速現地を視察した中将は、米軍の上陸は島東部海岸のドラグ付近だろうと予想し、そこに師団の兵力の大部分を配置した。米軍は、中将の予想通り島の東部海岸に上陸したが、まずドラグよりずっと北にあるタクロバンとパロ周辺に上陸してきた。続いてドラグにも上陸した。

米軍は圧倒的な兵力で日本軍を撃退した。なにしろ10月20日の1日だけで、6万人の兵力と膨大な量の武器を揚陸させたのである。10月末までには20万人の兵力が上陸している。これに対して日本軍(16師団)は正面から向き合う形となった。正面から向き合えば、兵力や武器の質量で劣る日本軍に勝ち目はない。実際16師団は、各戦線で米軍に圧倒され、内地へずるずると後退せざるを得なかった。10月末には、敗残兵のような形となって、ダガミの周辺に退却し、その後追われるようにして背後の脊梁山地の中に入っていった。

16師団のこんな戦いぶりは、戦後大いに批判の的になった。批判者の中には、16師団は公卿部隊で戦争をする意欲も能力もなかったなどと中傷するものもあった。しかしそれは言いすぎだと大岡は言う。16師団は9、20、33の三つの連隊から主に構成されているが、そのうち京都の部隊は9連隊だけで、残りの二つは福知山と津の部隊である。だから師団全部を公卿部隊と言うのはあたらない。どんな師団といえども、圧倒的に優勢な敵と戦えばずるずる敗退せざるを得ないこともある。また、16師団はいわゆる水際作戦をとって、上陸する敵に真正面から向かう戦術を取ったが、これも圧倒的な敵と戦う上で合理的な戦術とは言えない。むしろ後背地に堅固な拠点を設ける作戦を取ったほうが合理的であった。実際、硫黄島の戦いでは、水際作戦をやめて堅固な拠点を構築する戦術をとったことで、米軍に対して甚大な損害を与えることが出来た。レイテ島もそうするべきだったというのが大岡の見方である。

16師団に水際作戦を取らせたのは、陸軍内部の古い考え方に左右されたからだと大岡は言う。この作戦に限らず、レイテ島の戦いでは随所に首をかしげるような作戦が採用されているが、それらもみな陸軍の意識の古さを物語っていると大岡は見る。前線の兵士が情けなかったのではなく、軍司令部の戦術が稚拙だったというわけである。

16師団の兵士たちはただやたら敵に背を見せて逃げていたばかりいたわけではない。中には勇敢に戦った兵士も沢山いた。その例を大岡はいくつか挙げているが、最も力をこめて紹介しているのは、10月22日に、パロで日本兵数十名が米軍に斬込みをかけた件である。斬込みをかけた兵士たちは、万歳を叫ぶことなく、黙々として効果的に敵兵を倒していった。その様子を大岡は米側の資料に依拠しながら描いている。日本兵は全滅しているので、米側の資料に頼らざるを得ないのである。

日本兵による抵抗には感心しないものもあった。相手をだまし討ちにするやり方である。敵に白旗を見せ、敵が油断しているところを攻撃するというものだ。これは戦争以前の卑劣な行為で、とても合理化できるものではないと大岡は言う。レイテの日本兵がこんな方法を取ったのは、自分たちより圧倒的に優勢な物量で迫ってくる米兵が卑怯だという意識があったからだろう。それにしても、「同じ市民同士の間には、戦争以前の、人間としての良心の問題があると私は考える」と大岡は言うのだが、何がレイテの日本兵に、人間としての良心を失わしめたのか、それについては明確な答えを見出し得ていないようである。

16師団の本体は、10月30日以降ダガミ周辺の山地の中に退却した。それ以来、大部分が山の中にとどまったと思われている。翌20年3月時点でも山の中に、16師団の多くの兵士たちが隠れていたことが確認されていると言う。

レイテでは多くの所謂遊兵を生んだが、その多くが16師団の兵士だったと思われる。遊兵には自発的に離脱して自活の道を選んだものもあったが、比較的軽症で歩ける傷病兵が、食扶持を減らす為に部隊から追い出され、結果として遊兵になったケースもあった。たとえば、軽症の兵士たちが、オルモックの35軍司令部に行くように命令されたが、オルモックで受け入れてもらえず、行き場を失って遊兵化したものなどである。大岡が「野火」の中で描いている遊兵は、そのような経緯で生まれたものたちである。

16師団には、誇ってよい戦功もある。ブラウエン攻撃作戦が始まった際に、攻撃の中心となった今掘支隊がダガミ付近の山中にいた16師団の司令部と連絡を取り、作戦に協力させようとした。その時の連絡役の報告によれば、16師団の残存兵力は約2000だった。だが大部分は負傷して使えない兵士であった。そこでまだ十分に体力の残っていた兵士が150名、ブラウエンのブリ飛行場への斬込み作戦に参加した。この作戦は一定の成果を収め、16師団はいささか面目を施したのであった。その面目のほどを大岡は次のように賞賛している。「六日朝、ブリ飛行場を攻撃した150名の兵士がいたのは、師団の名誉でなければならない・・・師団がこれまで経てきた戦闘、当時の状況から見れば、これはレイテ島の戦闘の経過に現れた最も勇敢な行動の一つである」

12月19日にオルモック北方の山中にあった第35軍の司令部が敵の攻撃を受けて四散すると、レイテの日本軍はついに壊滅する。21日から22日にかけて、リモン峠付近を守っていた第一師団が転進という名の撤退を始めると、ほかの部隊も次々と転進を始めた。彼等が転進して行く先は、レイテ島北西部のカンギポット山の周辺だった。この周辺で、自活しながら永久抗戦を続けようというのである。抗戦と言っても、実体は敵の目を逃れて生き続けることであった。

16師団は、35軍司令部とは最も離れた位置にいたので、転進の命令はすぐには届かなかった。他の部隊の動向からレイテの日本軍がすべてカンギポット周辺に集まっていることを知ると、16師団もカンギポットを目指した。しかしてカンギポット周辺に集まった日本兵は、1万人以上と推測されているが、その大部分は生還することはなかった。16師団について言えば、当初の18600人のうち、最終的に生きて日本に帰ることができたのは、580人である。

16師団については、大岡がこの本を書いた頃まで、批判が絶えなかったようだ。一番きつい批判は、東海岸を死守しないで、持ち場を離れてしまったということだった。16師団の使命は、レイテ島東海岸を死守することであり、そこを離れて島の内部をさまよったのは軍人精神に最も反した許しがたい行為である、というのがその理由であった。その理由付けと非難の激しさについて、大岡は納得できないという表情を覗かせている。16師団は牧野師団長以下殆どの将校が戦死して、戦いの実情があまりわかっていない。そんな状態で師団を一方的に非難するのは、えげつないと思うのだろう。


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