日本語と日本文化


第35軍と第14方面軍:大岡昇平「レイテ戦記」


レイテ島上の地上戦を担ったのは、第14方面軍隷下の第35軍であった。第14方面軍はフィリピン全体を管轄していたが、そのうち第35軍は、ミンダナオとビサヤ諸島を担当した。レイテ決戦が軍の方針となるや、35軍の総力をレイテ島に投入し、足りないところは満州の第一師団や、ルソン島の26師団等で補ったことは先述のとおりである。

35軍司令官鈴木中将は、レイテ戦の行方について、当初あまり根拠のない楽観をしていたと大岡は書いている。その楽観は、一つには台湾沖海戦で日本が勝利したと信じていたこと、及び米軍の動向を見誤っていたことによる。中将は、米軍がレイテに振り向ける兵力は精々二個師団程度で、これなら簡単に叩き潰せると思っていたようなのである。敵をレイテ湾に追い落とし、マッカーサーを捕虜にするつもりだったという。

こうした馬鹿げた思い込みを、大岡は次のように言って批判する。「これも別に35軍に限ったことではなく陸軍全体が陥っていた誤りであった。桶狭間の奇襲とかタンネンベルグの殲滅戦とか御伽噺で頭がいっぱいになっていた参謀の作戦計画は、こっちがナポレオンのような天才的奇襲をしかける間、敵は何もしないでじっとしているだろう、という予想のもとに成り立っていた。こっちがこう出れば、あっちはこう来るかも知れないと想像することができなかったのである。一人ぎめの思い上がった構想は、この後レイテ戦を通じて常に現れて来る」

鈴木中将がレイテ島のオルモックに上陸したのは11月2日、それに先駆けて、参謀長の友近少将が10月28日に上陸していた。友近少将は、「軍参謀長の手記」という回想録を残しており、レイテ戦を知る上で貴重な資料となっている。そのトーンは、35軍の戦闘ぶりに対するシニカルな批判である。第16師団については、戦闘することなく退却した腑抜けの集団のように書いているし、35軍司令部の同僚たちにも厳しい眼を向けている。大岡にはそこが気に入らないらしく、兵士たちはそれなりに命をかけて戦ったのだと擁護する一方、友近自身は参謀長の要職にありながら、戦況を正しく分析することが出来ず、都合の悪いことは考えないで、味方の無能ばかり責めているといって批判するのである。

もっとも、35軍の壊滅の状況を見ると、友近の批判があたっていないわけでもないと思わせるところがある。オルモックの35軍司令部は、12月7日の米軍のオルモック上陸に追われるようにして北上していたが、12月19日に至って、カプラン西方に陣取っていたところを、米77師団の一部隊に急襲されて四散してしまったのである。これは一瞬のことで、襲ったほうの米軍も、まさか敵方の総司令部を壊滅させたとは思わなかった。それほどあっけなく、35軍の司令部は崩壊したのであった。その時の、司令部の狼狽振りを身近に見ていた若い土居参謀は次のように所感をメモにした。「軍司令部の敵襲を受けたる時の無統制振りを十二分に拝見す・・・軍参謀の面々敵攻撃を受けたる時はサッパリだらしがない」

奇襲を受けた時には300名の守備兵がいたが、これも戦うことなく四散してしまった。その理由について大岡は書いている。「彼等に戦わせることができなかったのは、普段から幕僚が彼等を殴打するだけで、心服させることができなかったからである・・・参謀の恐怖と不満は、ビンタとなって兵士の上に加えられたからである」

35軍が四散して壊滅状態になった直後に日本軍の中枢はレイテ放棄を決定する。それに引き続くように、レイテ地上軍に転進命令が下される。転進というのは要するに、前線を退却した上で拠点を設け、そこで自給自足しながら徹底抗戦せよということである。

35軍の鈴木司令官は、全部隊をカンギポット周辺に集中させた後、自分はセブに脱出した。これは後になって、司令官が部下を見捨てて自分だけ逃げたと非難される原因になったが、大岡は、これにはビサヤ諸島で体勢を立て直すという意味があったとして擁護している。だが司令官は、途中米軍飛行機に空から機銃掃射を浴び、船の中で被弾、戦死した。その死にざまにも、大岡は同情を示している。

第35軍を隷下におく第14方面軍は、本土、沖縄、台湾、フィリピンを結ぶ日本の防衛線を強化する為に強化編成された。司令部はルソン島のマニラにあり、やがて軍の総力をあげてレイテ戦へと突入していく。

14方面軍の司令官は山下奉文将軍である。山下はマレーの虎と呼ばれ、国民的な英雄として人気があった。本来なら参謀長や陸軍大臣になってもよい人材だった。それが戦地を転々とさせられ、ついには死地の司令官に任命された。その不遇は「東條首相の嫉妬のためともいわれ、大正年間『宇垣軍縮案』を起草したためともいわれ、2・26事件に際して、反乱部隊に同情的であったので、天皇に忌まれたためともいわれる」と大岡は書いている。

山下は、マレーの虎というニックネームや巨大な体躯から猪突猛進型の将軍ととられがちだが、実は「慎重合理的な知将型」であったと大岡は言う。山下は自分なりに戦局を分析し、レイテ決戦の非なることを主張した。しかし山下にはレイテ決戦に代わるべき案のあるわけもない。不本意のままレイテ決戦を指導することとなる。その結果惨憺たる敗北を喫した。山下には、この結果をはじめから予想していたフシがある、と大岡は推測している。彼が敗戦にあたって吐いた言葉は、最後の一人に至るまで、死をかけて戦い抜くということであった。このあたりは、日本の軍人気質を共有しているわけである。

山下将軍は戦後戦犯としてフィリピンで絞首刑に処せられた。その罪状としては、米軍によるマニラ爆撃をはじめ、度重なる日米間の戦闘によってフィリピン人の非戦闘員10万人が殺されたというものがあった。これは大岡に言わせれば、米軍の行った非人道的な行為の責任を日本の将軍にかぶせたものであり、山下将軍にとっては冤罪であったということになる。




  
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