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第一師団の戦い:大岡昇平「レイテ戦記」


レイテ戦は緒戦から、地上・海上で米軍に敗退し、その後の展望には暗澹たる陰がさしていた。大岡は、これ以上の戦いは無謀であって、中止したほうがよかったとする立場に立つが、日本軍はこの無謀な戦いを継続させた。そのために、死ななくてもすんだはずの大勢の兵士たちが死ぬことになった、として大岡は日本の当時の指導者を批判するのであるが、当時の日本の軍部はレイテ決戦をゆるぎない前提として考えていたようなので、そう簡単には引き下がれなかったのだろう。いわば軍部の意地が、レイテ島の悲劇を拡大したのである。

レイテ島での軍事力を補強する為に、陸軍の地上部隊が次々と投入された。そのほかルソン島に本拠を置いていた航空部隊のすべての力が投入された。レイテ島に投入された兵力は、最終的には陸海空合わせて84.000人に達したのである。そのうち8万人の兵士がレイテで戦死したのであるから、レイテ戦がいかに過酷であったか、数字から窺えよう。

緒戦敗退の後、レイテ島に本格的に追加投入された地上部隊は第一師団である(これに先立って第30師団及び第102師団の一部がオルモックに上陸している)。これは第一連隊(東京)、第49連隊(甲府)、第57連隊(佐倉)を中核とする部隊で、もともと満蒙に配置されていたものを、レイテ決戦のために転用したのであった。13.000人の兵力が、損耗をこうむることなく、ほとんどそっくり、二度にわけてオルモックに上陸した。

11月1日に上陸した第一師団の本体は、すぐさまオルモック街道を北上した。与えられた任務は、レイテ島北部カリガラ平野に進出して、そこから機を窺い米軍を駆逐するというものだった。この作戦は、16師団の残存部隊と協力するとともに、新たに第68旅団をカリガラ平野に上陸させ、一体となって米軍と戦うというものだったが、なかなか思うようにはいかなかった。目指すカリガラ平野はすでに米軍の制圧下にあり、協力すべき16師団は、米軍に追われて山中に退却していたからである。そんな情勢下で第一師団は、オルモック街道がもう少しでカリガラ平野に至る手前のリモン峠で、米軍の第一線と遭遇することになる。この峠で展開された戦いは、レイテ戦最大の戦いとなった。

日本軍の先頭は、千葉県佐倉の57連隊であった。佐倉の連隊は、明治の初期に第二連隊として編成され、西南戦争も戦った由緒ある連隊だった。その後、第二連隊が水戸に移ると、佐倉の連隊は第57連隊として再編成され、千葉県下から徴収された兵士を戦地に送り続けてきた。大岡は、57連隊の兵士は非常に勇敢だといって敬意を表している。

対する米軍の先頭は、第24師団の第21連隊であった。この連隊の任務は、オルモックの日本軍の拠点を攻略し、日本軍を無力化するというものだった。それ故、直面する日本軍をなんとしてでも撃退し、オルモックへ向けて突進しなければならなかった。日米両方とも、ここは互いに譲れない決戦場となったわけである。

米21連隊の連隊長はヴァーベック大佐、オランダ系のアメリカ人で、日本の近代史に名をとどめたフルベッキの孫である。大佐は、日本軍との戦いの模様を、情報参謀部への報告書のなかで記しているが、それを読むと、リモン峠における日米両軍の戦いがいかにすさまじいものであったか、また57連隊の戦いぶりがいかに勇敢なものであったか、如実に迫ってくる。その一例をあげると、

「敵と交戦した者は、その見事な戦闘ぶりによって感銘を受けた。向こう見ずな攻撃、無益な犠牲や一般に戦術の初歩に反した行動は見られなかった。敵のもっとも顕著なる特徴は射撃の組織的なこと、あらゆる武器の使用の統制にある。敵の射撃は例外なく最大の効果を発揮する瞬間まで抑制されていた・・・午後遅く抵抗を強化し、日暮れ前に反撃することにより、敵は一日のうちわが攻撃部隊の戦意と弾薬が尽きかけている時に、最も強力な銃火を浴びせて来る。壊滅的打撃を企図し、わが方が夕暮れまでに陣地を固めるのを妨げる・・・」

日本軍の戦いぶりに対する大佐のこのような評価を大岡は、「リモン峠でよく戦って死んだ兵士に対し、これ以上よき供え物はない」と言っている。

その一方で大岡は、日米の第一線の兵士たちの本音にも言及している。「米兵も連日の戦いで気が立っていた・・・自分たちに過酷な戦いを強いる日本兵に対して腹を立てていた。なんのためにおれたちは戦わなければならないのか、数千マイル離れた祖国で、金持ちが一層金持ちになり、どこかの気障な奴に女房をやられるため、フィリピンに来ているのか、というような観念にとりつかれていた。ハロやタクロバンで幕僚や新聞記者がフィリピン娘とダンスしているのに、なぜ俺たちだけ命をかけて戦わねばならぬのか、と腹を立てていた。日本兵もまた物量にものをいわせる米軍の戦闘を卑怯と感じ、腹を立てていた。三日間の戦いで多くの戦友が殺されたのを怒っていた」

ともあれリモン峠の戦いにおいて57連隊は、「圧倒的に優勢な砲兵と化学兵器の圧迫の下に、闘志と白兵戦闘の技術を生かして、支えられるはずのない北方戦線を10日、錯綜した東方山嶺を30日以上支えたのであった。12月21日に転進命令が出た時は参加人員2.500のうち、91名しか残っていなかった」。

57連隊がリモン峠の前線で敵と対戦している間、1連隊と49連隊は右翼としてオルモック街道の東側に展開していたが、その戦いは57連隊ほど烈しくはなかった。両連隊が戦いのピークを迎えるのは11月21日以降である。それぞれカリガラ平野のマナガスナスに進出して敵を殲滅せよという命令を受けたのである。これは、全滅を覚悟で戦えと言っているようなものだった。この命令を受けて、1連隊はマナガスナス方面へ進出、米32連隊に「穿貫攻撃」を仕掛けた。敵と正面対決を挑んだのである。この戦いは、双方とも一個大隊半の、ほぼ同じ戦力で行われた。1連隊はこの戦いを制した。その代償は大きかった。1連隊はほぼ三分の一の兵力を失ったのである。

一方49連隊も、カリガラ平野に進出して、マナガスナス・カポーカン道を完全に遮断した。こうした戦果はリモン峠で戦っていた57連隊を大いに勇気付けた。

大岡は第一師団各連隊の戦いぶりを讃える一方、その命令を出した軍首脳部の意図に疑問を呈している。それは軍が「師団の戦力低下を認識していて、攻撃命令を出しておいて、ちょうどよい防御になる、という判断をしたということ」ではないかというものである。つまり、だらけた兵士に活を入れるための方策だったというわけである。「これは中国戦線でもよく使われた手であった。劣勢防御の一種の定石であり、前線部隊の闘志に対する不信感から、後方で形成された通念なのであった。日本陸軍の戦力が上昇期にあった日露戦争の段階では、めったに見られないものだったが、中国戦線でだらだら戦い続けている間に、いつのまにか定式化してしまったのである」。これに対して大岡は、第一師団の兵士たちは決してだらけてはいなかった。それは彼等の戦いぶりをみれば判ることだと、第一師団を擁護している。

12月21日に転進、つまり総退却の命令が出たとき、第一師団では2000人ほどが生き残っていたと大岡は推計している。転進命令が最初に伝わったのは第一師団であり、またレイテから隣のセブへ更に転進する計画が実施された時に、それに参加したのも第一師団だった。第一師団から750人ばかりが選ばれてセブへ渡った。しかし、それは安全を意味したわけではなかった。セブへ渡った兵士たちも、現地で敵と戦い、そこで多くの兵士が命を落とした。敗戦後生きて日本の地を踏んだ兵士は、第一師団13.000人のうち、レイテからの生還者は50人、そのほかセブからの生還者を加えても、数百人だった。師団長の片岡中将も生還している。




  
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