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第68旅団:大岡昇平「レイテ戦記」


第68旅団は、満州で養成された特殊部隊で、戦闘能力も高く装備も充実していたと大岡は言っている。この旅団がレイテ島の西北端カモテス海に面したサン・イシドロに上陸したのは12月7日のこと。上陸した旅団兵力を大岡は5000とか4000とか書いているが、エピローグに載せている兵力内訳には6300とある。差し引きの数字はどうなったのか、海没したのか、明記されていない。米軍の空爆にさらされながらの上陸で、人員の揚陸だけで精一杯、武器弾薬は揚陸できず、ほとんど裸の状態での上陸だった。

35軍では、68旅団を第1師団の応援に使う計画で、サン・イシドロまで連絡斥候を派遣したほどであるが、上陸後の68旅団の行動は、あまりわかっていないという。12月22日に、各部隊への転進命令を伝えた土居参謀の復命には、68旅団は所在不明とある。35軍がようやく68旅団の動向を把握できたのは、12月23日のことである。旅団がそれまで何をしていたのか殆ど情報がない。旅団の一部と思われるものが米兵あるいはゲリラと交戦したらしいという証言はあるが、それも断片的で要領を得ない。そんなことから大岡は、旅団がわざと時間稼ぎをして、死地とわかっている戦場に直行することを怠ったのではないかと勘ぐっている。

68旅団が35師団と接触したのは、カンギポット方面に向かって転進する第一師団の先頭部分と山の中で偶然遭遇するという形をとった。その時の様子を大岡は次のように書いている。第一師団が「道なき稜線を越えて、一つの谷間に降りたところで、先頭が六十八旅団の歩哨隊と接触したという知らせが入ってきた。待望の増援部隊との連絡が漸くなったのである。旅団の兵士は着衣も新しく、丸々と肥っていて、痩せ衰えていた第一師団の兵士たちには羨ましく頼もしく見えた。旅団長栗栖猛夫少将は片岡中将と幼年学校以来の同期生であった。中将は歩哨に導かれて、谷間を出はずれたところにある高地上の司令部に行った。戦況と軍命令を伝え、担送してきた瀬戸口参謀を引き渡した。しかし師団は行軍中なので、二十分しか止まることはできなかった。その後二人は再び会う機会はなかった。五十七連隊長宮内良夫大佐も同期なので、立ち寄った。栗栖少将は『これでぼくはレイテの土になるのだ』といったという」。栗栖少将はその後、26師団長に転じた後戦死した。

翌年1月2日の第35軍の点呼内訳には、総人員10000のうち、68旅団の人員は4000とある。残存部隊のうちでは、一番あとからやってきて、まともな戦闘もしていなかったので、最も元気だったはずだ。それ故か、35軍司令部が3月にセブに渡ったあとも、カンギポット周辺でレイテ島持久戦の中心となった。旅団長以下の幹部将校はみな戦死した。旅団全体としても、最後まで生き残って日本に帰還できたのは、実に90名に過ぎない。これは各部隊の損耗率のなかでも最も厳しい数字である。このことから、68旅団を、初動で戦闘を回避したといって責めるのは、フェアでないといえよう。

68旅団の上陸に伴い、サン・イシドロには独立混成58旅団の一個大隊が、補給基地確保のために上陸・配置された。12月27日に米軍がサン・イシドロに上陸し、この部隊と交戦しているが、ほとんど抵抗を受けなかったという。そこに残っていた日本兵は傷病兵ばかりだったらしい。58旅団の残存兵力は、その後カンギポットへ移動した。


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