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小川洋子を読む


小川洋子は、多和田葉子とほぼ同じ世代で、ともにノーベル賞の候補者に擬せられていることもあって、色々と比較される。基本的に言うと、この二人には、どちらも女性であるということを除けば、ほとんど似たところはない。多和田は大学を卒業するとすぐにドイツに渡り、そこでいわゆるエクソフォニーの生活を送ってきた。エクソフォニーというのは、母国の外に出ている状態をさす言葉で、要するに故郷喪失者のことを言う。故郷喪失者というと聞こえが悪いので、無国籍者あるいはコスモポリタンと言い換えてもよい。21世紀になって、グローバル化が普遍化し、人々が国境を無視して動き回るようになると、国籍を感じさせない人々が多くなった。そうした人々の感性を文学に反映させたのが多和田葉子という作家である。

それに対して小川洋子は、日本という国に腰を落ち着けてきた。外国に出かけることはあっても、旅行者としてである。日本に居て、日本語を用いて、日本的な感性を書き続けたと言ってよい。もっとも小川には、日本を露骨に感じさせるような雰囲気はない。小川の小説の舞台は、かならずしも日本である必要はなく、外国のあるところであっても、あるいは、どこでもないところであっても、不都合はない。だが、そこで描かれているのはやはり日本人的な感性である。多和田の小説に出てくる人物が、国籍を感じさせないのに対して、小川の小説の世界の人物は、日本人的な感性を色濃く感じさせる。小川の文学の持ち味はそこにあると言ってよいくらいだ。

それにしても、多和田と小川それぞれの文学世界はかなり色合いが違う。それは文体にもあらわれている。多和田が女性を感じさせないジェンダー・ニュートラルな文体なのに対して、小川の文章は女性らしさを強く感じさせる。少なくとも、男には書けない文章である。そういう文章を書ける男としては、唯一梶井基次郎があげられるくらいだ。その梶井を小川は好きな作家にあげているが、それは梶井の文章に、女性である彼女がひきつけられる繊細さを感じ取るからであろう。

もっとも、多和田にしても、最初は、源氏物語を真似たような、擬古的で息の長い文章を書いていた。多和田は、源氏物語の文章に、日本女性の感性の原点のようなものを感じて、それを真似ることから自分の文業を始めたように受け取れるのだが、エクソフォニーの生活に慣れ親しむにつれて、そうした日本的な女性感覚にこだわらなくなった。コスモポリタンには、国籍ばなりでなく、ジェンダーの差も乗り越えるところがあるらしい。

一方小川のほうは、妊娠をテーマにした小説「妊娠カレンダー」から出発したように、最初から女性を強く感じさせる文学世界をめざし、その傾向はその後も変らなかったばかりか、年をとるにつれてますます、女性を意識させるような文体を磨いていった。小川の最大の持ち味は、繊細で透き通るような文体である。そういう文体で書かれた文学は、他言語に翻訳するのがむつかしいと思うのだが、小川の作品は結構外国語に翻訳されて、そこそこの読者を獲得しているらしい。

多和田と小川の相違点を強調したが、二人には、文学的な類似点もある。それは、ディストピアへの関心だ。20世紀に流行したディストピア小説は、世界規模での社会の全体主義化を反映していた。その全体主義的な傾向は、ナチスドイツ、ファッショイタリア、ソ連のスターリニズムにとどまらず、いわゆる自由主義的な国家にも広がっていた。その背景に、20世紀は戦争の世紀だと言われるような、戦争の圧力があったことは間違いない。20世紀の戦争は国民全体を巻き込んだ全体戦争であって、そうした要請が、国家による社会の全面的な管理を要求した。その要求が、社会を息苦しいものにし、いわゆるディストピアの雰囲気を撒き散らしたわけである。

多和田と小川がそれぞれ描くディストピアは、上述したような意味での全体社会ではない。それは社会としての体裁を失いつつある社会である。多和田が「献灯使」のなかで描く世界は、滅び行く地球である。その地球を人類の代表が脱出して、宇宙に新たな生存のための基盤を整えようというのがその小説のテーマであった。一方、小川が「密やかな結晶」で描いた世界は、人類が様々なものを失っていった挙句、自分自身を失うという物語である。どちらも、人類の直面する破滅をテーマにしている。破滅しつつある世界は、20世紀的な意味での全体社会的ディストピアとは違った、21世紀的な破滅的ディストピアといえるだろうか。そのディストピアを、多和田、小川それぞれの視点から描いたわけだが、そうしたディストピアが作家の問題意識に上るところが、21世紀の特徴といってよいかもしれない。

ここで、小川のいくつかの作品を取り上げてみたい。小川は「密やかな結晶」でさまざまなものが失われた挙句に人間の身体までもが失われるディストピアを描いたあとに、その失われたものを取り戻すということではないだろうが、何物かに取り付かれた人々を描き続けた。「博士の愛した数式」は数字に取り付かれた人の話だし、「猫を抱いて象と泳ぐ」はチェスに取り付かれた人の話だった。また、「ことり」は文字通り小鳥に取り付かれた話だったし、「小箱」は失ってしまった大事な人々の形見を収めた小箱の話だった。どれもみな、ものにこだわりながら生きる人々を描いている。かれらにとっては、そのこだわることが、生きることなのであって、そのこだわりをなくしては生きていられない。そういう意味で、小川的な意味でのディストピアに抗うことをテーマにしたものだ。こうしてみれば、小川がいかに、世界のあり方について自覚的な作家だったかということがわかる。

これらの小説を書きつなげながら、小川の文体も進化していった。小川にはもともと、女性的な表現にこだわるところがあったのだが、それがますます自覚的に追求されることになった。先ほどもちょっと触れたように、小川の文体は感性的でしかも透明度を感じさせる。感性的と透明感とは、見方によっては相容れない概念セットだが、小川にはそれを無理なく感じさせるところがある。その一方で小川の文体は、人間の内面の感情や外面に現われた仕草を、ストレートに表現するのではなく、間接的に仄めかすというところがある。それは自然の繊細な描写であったり、時間の流れであったりする。そういう表現の仕方は、日本の古典文学を特徴付けているもので、それを本居宣長翁にしたがって、「もののあはれ」と言ってもよい。小川はその「もののあはれ」を、21世紀の今日の日本で、もっとも自覚的に追求している作家といえる。

「小箱」は、そんな小川洋子の文業の頂点に立つ作品である。「密やかな結晶」におけるような鋭い批判意識があるわけではなく、「博士の愛した数式」のような綿密な構成があるわけではなく、また「ことり」のような人間の深い側面が伺われるわけでもないのにかかわらず、一つの作品としてみると、完璧なものになっている。それをごく単純化していうと、人間同士の触れあいを、人間に対する深い信頼に裏付けられながら、誰もが納得するような形で描き出したということだろう。これは最も小説らしくない小説ながら、読む人々に深い感銘をもたらすのである。



妊娠カレンダー:小川洋子を読む
ドミトリイ:小川洋子を読む
夕暮れの給食室と雨のプール:小川洋子を読む
密やかな結晶:小川洋子を読む
寡黙な死骸 みだらな弔い:小川洋子を読む
小川洋子「博士の愛した数式」
ミーナの行進:小川洋子を読む
猫を抱いて象と泳ぐ:小川洋子を読む
ことり:小川洋子を読む
小箱:小川洋子を読む
心と響き合う読書案内:小川洋子の読書案内
妄想気分:小川洋子のエッセー集


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