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猫を抱いて象と泳ぐ:小川洋子を読む


「猫を抱いて象と泳ぐ」は、チェスに見せられた少年の物語である。小川洋子は小説の中にフェティッシュな対象を持ち込むのが好きだと見え、代表作といわれる「博士の愛した数式」は数字がそのフェティシュの役割を果たしていた。小川はフェティッシュを持ち込むについては、徹底的なこだわりを見せており、対象についての深い理解を示している。「博士の愛した数式」を書くについては、数学者の藤原正彦から整数の性質についてのレッスンを受けているほどだ。この「猫を抱いて象と泳ぐ」を書くに当たっては、チェスのルールに関する知識はもとより、広くチェスにまつわる逸話なども徹底的に読んだようだ。

少年が主人公である。少年を主人公にした小説は、とかくイニシエーション(通過儀礼)を中心にした成長物語になりがちだが、この小説の中の主人公の少年は成長することをやめた人である。かれは十歳のときのままで成長をやめ、そのままの姿で死を迎えるのである。成長をやめた人間の物語としては「ブリキの太鼓」があまりにも有名だ。「ブリキの太鼓」の場合には、世の中の不条理が少年を絶望させ、大人になることを拒んだというふうにも伝わってくるが、小川のこの小説の中の少年には、そういう社会的な視点はない。かれはただ、自分のスタイルでチェスを続けるために、成長することをやめるのだ。そのスタイルというのは、チェス盤を距てて相手と向き合うのではなく、チェス盤の下にもぐって戦術を練るというものだった。チェス盤の下は、言うまでもなく狭い空間である。その空間にもぐりこむわけだから、少年の体が大きいことは、妨げになる。だから少年は小さい体のままに生きなければならないのだ。

少年がチェスに求めるのは、勝利の喜びではない。相手に勝つことが目的ではないのだ。かれがチェスに求めるのは、美しさのようなものである。美しさとは、チェスの軌跡がもたらすある種の摂理のようなもののもつ美しさであり、また、フェアなゲームをしたことにともなう満足感のようなものである。それらを総合して、達成感がもたらす調和した感情のようなものである。調和は美しさに通じる、というか美しさの本質的な要素である。その調和が、この小説に独特の輝きをもたらしている。

少年を囲んでさまざまな人々が出てくる。少年にチェスを教えてくれたバスの元運転手、その運転主との出会いは別の運転手の死が媒介してくれたのだった。この小説には死の影が色濃く漂っている、小説全体が少年の死によって限界を隠されているほどなのである。だいいちこの少年は、両親が死んで、祖父母に育てられているということになっている。祖母は孫に無限の愛を注ぎ、祖父は祖父で少年に生きる手本を見せてくれる。そのほか、少年がときたま息抜きに出かけたデパートの屋上で、あまりにも巨大化したために地上に降りられなくなった象のインディラとか、壁の間に閉じ込められてしまった少女とか、チェスを教えてくれた元運転手が面倒を見ていた猫のポーンとかである。そのほか、チェスを愛する老婆令嬢とか、謎のチェス・クラブの事務局長とかである。こうした人々の中で、小説の最後まで死なないのは、壁の中から出てきた少女ミイラくらいなのである。それほどこの小説は多くの死に彩られているのである。

小説にとって大きな転換点となるのは、"リトル・アリョーヒン"という名の人形であった。"リトル・アリョーヒン"という名は、伝説のチェスの名手アリョーヒンにちなんだもので、この名を冠した人形を、老婆令嬢が謎のチェス・クラブに寄贈したのだった。少年はそのクラブに雇われて、"リトル・アリョーヒン"を操りながら、チェス好きの人々を喜ばす仕事についた。少年は、チェス盤の下にもぐりながらその人形を操り、チェスのゲーム相手を務めるのだった。そんなことから、その少年もリトル・アリョーヒンと呼ばれることになる。

小説の大部分は、このリトル・アリョーヒンとしての少年が、人形の"リトル・アリョーヒン"と協力しながら、チェスを楽しむ様子を描く。従って小説の大部分は、チェス・ゲームの解説という体裁をとっている。その描き方は、小川らしく素直な文章で、小生のような全くチェスを知らない人間でも十分楽しめるように工夫されている。小川はこうした文章を書くために、だいぶチェスを研究したようである。

小説のクライマックス部分は、人里離れた山奥にある老人施設で、リトル・アリョーヒンが入所者たちを相手にチェスを楽しむ様子の描写に宛てられる。その傍ら、リトル・アリョーヒンとミイラとの文通とか、リトル・アリョーヒンが老婆令嬢とチェスを楽しむ場面が挟まれる。リトル・アリョーヒンがミイラとの間で文通したその内容とは、手紙を通じてチェスの一手を互いに示すことであった。その手紙の中でのチェスのゲームにミイラは負ける。その投了の合図くらいは直接したいと、ミイラは老人施設まで脚を運ぶ。ところがミイラが施設へ登るために乗ったゴンドラと入れ違いに、リトル・アリョーヒンの遺体を乗せたゴンドラが降りていったのである。

リトル・アリョーヒンが死んだのは、思いがけない事故のためだった。冬の一日、かれが燃やしたストーブが軽い火災を起こし、そのために彼がいた部屋が酸欠になって、窒息死したのだった。かれは人形の中に入ったまま、対戦相手を待つ間に死んだのである。

こうしてリトル・アリョーヒンは、そのあだ名に相応しい死に方をしたわけである。その死に方を小川は次のような文章で表現している。「"リトル・アリョーヒン"がトランクに詰められて旅立ったときと同じく、かれらは棺というトランクに乗って再び旅に出ようとしているのだった。リトル・アリョーヒンは生まれた時のようにしっかりと唇を閉じ、右手にポーンの駒袋、左手にビショップを握っていた」。ポーンはチェスの師匠が飼っていた猫の名前、ビショップはデパートの屋上に飼われていた象のインディラの象徴である。だから主人公の少年は、猫と象をともなってあの世に旅立ったわけだ。それが「泳ぐ」というタイトルにつながっているのは、少年にとってチェスをすることは、深い海の中を泳ぎまわることに喩えられているからである。

かようにこの小説は、チェスというゲームを中心にして、ものにこだわる人達の生き方を描いている。小川は明確な輪郭を持ったものにこだわるタチだと自分自身を評しているが、この小説はそんな小川の小川らしさをよく表現しえている作品だといえよう。



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