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ミーナの行進:小川洋子を読む


「ミーナの行進」は、ある女性が自分の少女時代を回想するという設定の小説だ。設定自体はありふれたものだが、小川洋子らしい素直で暖かい文章で書かれており、じつに心を洗われるような気持にさせられる。老年の男性である小生でさえ、心温まる気分を味わったのであるから、女性にとっては、自分自身の少女時代が思い出されて、ノスタルジックな気分を搔きたてられるのではないか。

ある特定の年を舞台背景として設定している。1972年だ。この年は、作者の小川が、小説の語り手と同じ年齢だったということもあるが、それ以外にも大きな出来事があって、それが小説の中で生かされている。春に神戸と岡山を結ぶ新幹線が開通したこと、夏にはミュンヘン・オリンピックが開催されたこと、秋にはジャコビニ彗星が二十世紀最大の流星を降らせると予言されながら、なぜか条件のよい日本でもあまり目撃されず、それが謎だと言われたことなのである。ローカルな出来事として六甲の山火事が出てくるが、これも実際にあったことなのだろう。

小説は語り手による一人称の形式をとっている。彼女が12歳のときに、母親の都合で伯母の家に一年間預けられることになった。彼女は開通したばかりの新幹線に単身乗って神戸まで行き、そこで叔父が運転するベンツに乗せられ、芦屋の六甲山中腹にある豪勢な邸宅に迎えられるのだ。その邸宅にはミーナと呼ばれる少女がいて、語り手は自分より一つ年下の従妹であるこのミーナと、一年間仲良く暮らすのである。小説はそんな彼女らと、彼女らを取り巻く家族やお手伝いの人達の暮らしぶりを、情緒たっぷりに描き出していくのである。

もう一人重要なキャラクターが出てくる。コビトカバのポチ子である。このコビトカバは、もともとミーナの父親が少年の頃に、プレゼントとしてリベリアから贈られてきたものだったが、体の弱いミーナのために大きな役割を果たしていた。ミーナは毎日このポチ子に乗って小学校まで通学していたのである。小林さんという老人がこのポチ子の面倒を見ていた。その小林さんがポチ子を先導しながら、学校を目指して歩いていく。その様子を語り手は「ミーナの行進」と呼ぶわけなのだ。

小説の大部分は、語り手とミーナとの触れ合いを描くことに費やされている。ミーナは本を読むのが好きで、市立図書館から色々な本を借りてくるように、語り手に頼む。語り手はその役割を喜んで引き受ける。というのも、図書館の司書をしている若い男性に特別の感情を抱いたからだ。恋心というのではないが、人間同士として信頼しあえる関係ということか。一方ミーナのほうは、まだ恋心に芽生える年齢ではないが、フレッシーという飲料を毎週配達してくれる青年と仲良くなる。その青年は、ミーナが集めているマッチ箱の珍しいものを、配達の都度運んできてくれるのだ。

フレッシーというのは、ミーナの父親が経営する会社の商品なのだ。その父親はダンディな中年男として描かれているが、やがて不倫をしていることに、語り手は気づく。彼女はその不倫現場までわざわざ出かけていくのだ。しかしその不倫のために家族が崩壊するところまではいかない。ただ妻であり、語り手の伯母である女性が、かなり屈託を抱えているように描かれているだけである。

ミュンヘン・オリンピックでは、日本の男子バレーボール・チームの優勝が期待されていた。語り手とミーナもチームのファンになる。そして自分たちも、想像の中ではあるが、バレーボールをしているつもりになる。そのうち熱が嵩じて、語り手は母親にねだってバレーボール用のボールを贈ってもらう。ミュンヘン・オリンピックの公式ボールと同じものだ。だがそのボールを使ってバレーボールの真似事をしてもうまくいかない。どうやら彼女たちの運動神経はすぐれてはいないようなのだ。

ミュンヘン・オリンピックといえば、イスラエルチームへのテロが世界に衝撃を与えた。小説も当然それに言及している。しかし少女らしい感覚的な受け止め方が叙述されるだけで、踏み込んだ見解は述べられない。ある意味自然な態度といえるだろう。中学一年生の少女に政治のことを考えさせるわけにはいかないだろう。

小説の最後の部分で、六甲山の火事のシーンが出てくる。この火事の直後にポチ子が死んでしまい、ミーナは一人で歩いて学校に行くことになる。また、この火事がきっかけとなって家族の団結が深まったらしくもある。そういう意味ではこの火事は、大きな転機として位置づけられている。その点では、谷崎の「細雪」と似たところがある。「細雪」では台風にともなう河川の氾濫が登場人物たちにとっての転機として位置づけられていた。小川はそれを念頭に、このシーンを挟んだのかもしれない。

この小説の魅力は、なんといってもミーナという少女の存在にある。彼女は、「ローザおばあさんの血を引いているからか、あるいは喘息の持病があるせいか、ミーナの肌は透明な薄紙のように白く、血管はもちろん血の流れる様子までが透けて見えそうだった。女の子なら誰もが、こんなふうにありたいと願うような美少女だった」と描写される一方、知的好奇心に富み、しかも心優しい少女として描かれている。その心の優しさが、読者の気持を暖かくしてくれるのだろう。

そのミーナは、中学校の卒業を待たずにスイスの寄宿学校に転校し、以後ヨーロッパで暮らしてきたことになっている。小説は、1972年からかなりの月日がたった時点で、かつての仲良しの少女たちが手紙を交換し合うところで終わる。その手紙の中でミーナは、語り手をヨーロッパに招待し、語り手もそれをなつかしく受け止めるのである。なつかしいあまりに語り手は、かつて邸宅があり、いまでは他人の手に渡ってしまった場所を訪ねた印象を披露する。ガラリと変ってしまった中でも、ひとつだけ昔を思い出させるものがあった。ヤマモモの木である。その根元にあのポチ子が寝ているはずなのだった。小説は次のようなセンチメンタルな文章で終わる。

「その根元に赤いサルビアが咲いていました。まるでポチ子の故郷、リベリアからはるばる飛んできた種が花開いたかのような、綺麗な赤色でした」

こんな具合にこの小説には、おとぎばなしを思わせるようなところもあるのだが、そうはわざとらしさを感じさせない。そこは小川の文章の賜物だろう。



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