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密やかな結晶:小川洋子を読む


「密やかな結晶」は、人間が置かれた恐ろしい状況を描いている点では、ある種のディストピア小説といえる。ディストピア小説といえば、オーウェルの「1984年」とかカフカの一連の小説が思い浮かぶ。それらの小説は、異常な状況を描いているということもあって、文章も不気味な雰囲気に包まれている。読者はその不気味な文章を通じて、実際には考え難いような奇妙な状況に直面させられるのだ。

ところが、小川洋子のこの小説は、荒唐無稽といってもよいような異常な状況が、透明感のある非常に穏やかな文章で描かれる。小川洋子の作家としての資質は、彼女の表情豊かな文章にもっともよく表れているのだが、その表情豊かな文章を浮かび上がらせる小説の世界は、ある意味背筋がぞっとするような非人間的なものだ。自分自身が、こんな状況に陥ったら、おそらく全存在を震撼させられるほどのショックを受けるだろう。そんな異常な事態が、静かで穏やかな文章で表現されるのである。これは究極のミスマッチ小説というべきか。表現するものと、表現されるものとが、たとえゆるやかであっても、対応関係を示す、ということがないのだ。

オーウェルの「1984年」とカフカの「審判」を、ディストピア小説の二つの典型とすれば、小川のこの小説は、どちらかちいうと、「カフカ」の世界に近い。「1984年」は、個人が権力によって抑圧されるところを描くのに対して、「審判」は主人公の陥った状況の不条理さをテーマとしている。そこにはむき出しの権力は登場しない。権力がむき出しの形で登場するのは主人公が死刑判決を受けて、それを執行される場面でだ。その場面で主人公は初めて自分にのしかかる権力の重みを感じさせられ、その重みに押しつぶされた自分自身を、犬のようだと思いながら死んでいくわけである。

小川のこの小説には、一応実体性を伴なった権力が出てくるので、その部分では「1984年」と通じるところがあるが、その権力自身が、自分とは異なった別の次元の権力に服しているようである。この小説では、その高い次元の権力は、国民の生きている空間から、さまざまなものを消滅させるという形で、国民を抑圧する。それは超自然現象というべきもので、一介の政治権力の恣意に左右されるものではない。超自然現象といったが、それは全く規則性をもたず、突然、恣意的に現われるという意味であって、人間の力を超えているという点では、自然現象と呼んでもおかしくはないのだ。

つまり、この小説の中の世界では、人間の思惑を超えた形で、さまざまなものや事柄が消えて生き、それに伴って、それらにまつわる人間の記憶も消えてゆくのである。権力はそのプロセスを滞りなく進めるように、いわば産婆役としての役割を果たすに過ぎない。ものやことが消えていくのは、妊婦が分娩するのと同じ自然現象であり、産婆が分娩の手伝いをするように、この小説の中の権力は、消滅のプロセスに援助の手をさしのべるだけなのである。だから、消滅という不可避的な現象を前にして、権力も国民も受動的な立場に置かれているわけだ。権力は自立的な権力の行使者ではなく、半ば自然現象としての消滅を、脇から見守るレフェリーのようなものだ。かれらは、消滅のプロセスに立ち会う一方、消滅の圧力から逃れている人間を見つけ出して、それらの人々を迫害するのだ。主人公の語り手の母親もそのようにして迫害された。ある日秘密警察によって連行され、その数日後に遺体で戻ってくるのである。

小説の主人公でもある語り手は、作家ということになっている。彼女がいま書いている小説は、これも一種のディストピア小説であり、主人公の女性が声を奪われるところを描いている。彼女はタイピストなのだが、自分が使っているそのタイプライターに声を閉じ込められて、言葉を発することが出来なくなってしまう話なのだ。小説全体の語り手は、それは明らかに意識していないようだが、自分の置かれている状態を、そのような形で象徴的に表現しているようなのだ。小説中小説の主人公が声を失うように、現実の自分もさまざまなものを失っている。この語り手の失うものは、最初の頃は外的世界に属するものだったが、次第に自分自身を失うようになってくる。彼女はまず左脚を失い、ついで右腕を失い、その先身体の様々な部分を失ったあげく、肉体的な存在としては消滅してしまうのだ。残ったのは声だけだった。彼女が書いていた小説の中では、声を失うことが書かれていたが、現実の世界では、声を除いた自分の存在を失ってしまうのである。

この語り手とは別に、彼女が仕事上付き合いのあった編集者R氏と、彼女の両親に仕えていたおじいさんが出てくる。そのR氏も母親同様記憶を失うことがなかった。そういう人間はいずれ記憶狩りと称して、殲滅させられる運命にある。そこで語り手はその人物を隠匿する。自分の家の内部に隠れ家の小さな空間を作り、そこにR氏を匿うのだ。その仕事をおじいさんも手伝う。かれは、消滅した船の残骸の中に住んでいたのだったが、それが地震と津波によって海に流されてしまったあと、語り手の家に移り住んで、一緒に暮しながら、R氏を匿う仕事を手伝うのだ。

このR氏とおじいさんと語り手の共同生活が、情緒豊かに語られ、それがこの小説の最も読みがいのある部分になっている。小川の透明でぬくもりのある文章が、この三人の人間的な触れあいを、まるでかれらの体温が伝わってくるかのように、リアルタッチで描き出される。小川はリアルな文体でシュルリアルな事象を表現するのが得意のようだ。

小説の最後の部分は、主人公が実体を失い声だけになって、R氏の手に握られるところを描く。彼女は頬を失っているので微笑を浮かべることもできず、また涙を流しても流れ伝わるためのより所がない。ただ空気のようにただよいながら、最後に残った声で「さようなら」と呼びかけるだけなのだ。そのようにして、「閉じられた部屋の中で、わたしは消えていった」というのである。



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