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ことり:小川洋子を読む


小川洋子の小説「ことり」は、文字通り小鳥に魅せられた男の生涯を描いた話だ。小川には、何かに魅せられた人間をモチーフにした一連の作品がある。「博士の愛した数式」は、数字特に整数に魅せられた人たちの話だし、「ミーナの行進」は、マッチ箱に見せられた少女の話だし、「猫を抱いて象と泳ぐ」は、チェスに魅せられた少年の話だった。そうした、何かに魅せられた人間には独特の輝きがあると、小川は考えているようだ。これらの小説には、劇的な要素はほとんどない。ただ単に、主人公たちの至極単調な生き方を淡々と描いているに過ぎない。そんな生き方に果たしてどれほどの意義があるのかと思えるほどだ。しかし、人間は意義のために生きているのではない。人間が生きているのは、自分がたまたまこの世界に生を受けたからだ。生を受けたからには、それを精一杯生き抜くことが人間として大事なことではないか。どうもそんな、ある種諦観のような、それも非常に静かな諦観のようなものが、小川のこれら一連の小説からは伝わってくるのである。

小川には、「密やかな結晶」のような、ディストピアをテーマにした作品もある。ディストピア小説は、20世紀の文学をもっとも強く特徴付けるものだ。20世紀という時代は、世界中で大規模な戦争が繰り返された一方、独裁的な政治が市民を蝕んでいたこともあって、非合理と不条理が蔓延していたといってよい。要するに、普通の意味での人間的な常識が通じないわけで、それが、そこに生きる人間に閉塞感のようなものを押し付けた。その閉塞感が、ディストピアに生きているという実感をもたらしたと思う。それがディストピア小説の盛行につながったのではないか。

小川には、そのように、時代についての鋭敏な触覚を感じさせるようなものと、この「ことり」のように、時代を超えた、人間の生き方の、ある意味普遍的な意味について考えさせるような作品とが、二つの系列をなしている。どちらかといえば、小川の得意な小説は、後者の系列に区分されるもののようだ。

「ことり」の主人公は、小鳥に魅せられたある男である。かれが小鳥に魅せられたきっかけは、兄の影響によるものだった。その兄は、かれより六歳年長だが、二人は双子の兄弟のように仲がよかった。その兄には言語障害があって、普通の人間の言葉はしゃべれない。しかし小鳥の言葉を理解し、またしゃべることができる。その兄の影響で、この主人公は小鳥と深いかかわりをもった人生を送ることになる。かれは小鳥とのかかわりから、近所の幼稚園の子どもたちに「小鳥の小父さん」と呼ばれるようになる。その呼称は、まわりの大人たちにも広がる。かれにとっては、小鳥とのかかわりが、この世界とのかかわりの大部分を占めているのである。小鳥とのかかわりというか、触れ合いだけが、かれの人生の殆どの部分を占めるというのは、一人の人間の生き方としては、あまりにも貧しすぎるのではないか。普通の人間ならきっとそんなふうに思うに違いない。ところが、この「小鳥の小父さん」は、自分の人生に悔いを持ってはいない。それどころか、小鳥とかかわることによって、自分の人生が豊かなものになったと感じるのである。この主人公は、子どもの時に兄に影響されて小鳥との触れ合いに身をゆだね、小鳥に見取られながら生涯を終えるのである。まさしく小鳥とともに歩んだ人生といってよい。

そんなわけだから、かれの人生にはほとんど変化らしいものがないし、ましてや劇的な要素もない。劇的な要素を持たない小説は、得てして退屈なものになりがちだが、この小説は、読者に退屈を感じさせない。それどころか、読み進むほどに感動を覚えるのだ。少なくとも小生の場合はそうだった。それには、小川の文章のもつリズムのようなものが大いに働いている。小川の文章には独特のリズムがあって、それが読むものにある種の恍惚感を与える。その理由は小川の文章の音楽的な性格だろう。小川の文章は、非情にリズミカルな一方、バイオリンの透明な音色を聞いているような艶のある音感を含んでいる。それとともに、ソナタのモチーフの展開を感じさせるような構成的な響きもある。

小川のそうした文章の一例として次のようなくだりが挙げられる。これは、嵐の日に主人公と兄とがラヂオの音に聞き入っている場面の描写である。

「一段と強い風が巻き起こった。協奏曲は第三楽章に入り、オーケストラを従えてバイオリンはテンポを速めていた。小父さんが目を開くと、お兄さんはさっきまでと変らない格好でそこにいた。小鳥と同じだった。か弱い体を巣に隠し、小さな耳だけを外に向け、秘密の声でささやく小鳥と同じだった」。バイオリンの音色と重なり合いながら、ささやかな情景が浮かんでくるような書き方である。

主人公の人生には、劇的な要素はない。行動範囲は自宅と勤め先のある近所に限られ、そこから出ることはない、旅行をしたこともない。いつも、旅の計画をたてながら、あたかも旅行に行ったような気分になることで満足するだけだった。そんな主人公にも、いくつか人生の転機というべきものはあった。強く愛着していたらしい両親との死別、そして兄との死別、近所の幼稚園で飼っていた小鳥の世話をしたことと、それが出来なくなったいきさつ。それと平行して、図書館で知り合った若い司書の女性との淡い交際。どうも主人公はこの女性に生まれて一度だけの恋愛の感情を抱いたようなのだ。その時主人公はすでに初老の男であり、若い女性に恋をするような柄ではないと自らも感じているのだが、それでも恋の感情には勝てない。そのやるせないような切実な気持を描くところがこの小説のハイライトと言ってよいだろう。主人公の恋という点では、「猫を抱いて象と泳ぐ」の少年も、象の生まれ変わりと思われる若い女性に恋心のようなものを抱いたのであったが、それは強く意識化されることはなかった。この小説の中の「小鳥の小父さん」も、自分の気持を強く意識化することはなかったが、それでも彼女と会えなくなったことに伴う深い喪失感がひしひしと伝わってくる。男女の別れにともなう喪失感を描いたものとしては、もっとも感動的なものではないか。

主人公の死は突然訪れる。偶然知り合った「めじろ」のブリーダーに、めじろの鳴き声コンテストに連れて行かれた主人公は、そこでめじろがただの金儲けの材料として扱われていることに違和感を覚え、会場に集められていた鳥かごの扉をあけて逃がしてやる。その後家に戻った主人公は、自分が面倒を見ているめじろと戯れながら、目を閉じて横たわり、二度と目を覚ますことはなかったとアナウンスされる。かれはそのめじろが怪我をしていたので、世話をしていたのであって、一方的に飼っていたわけではなかった。

小説はこのように突然終わるのだが、実は書き出しのところで主人公の死が紹介されていた。その書き出しの部分は次のようなものだ。

「小鳥の小父さんが死んだ時、遺体と遺品はそういう場合の決まりに則って手際よく処理された。つまり、死後幾日か経って発見された身寄りのない人の場合、ということだ」

この書き出しが、かれの生きてきた人生をよく物語っている。誰にも気にとめられず、自分からそれを求めるでもなく、自分自身に与えられた命を精一杯生き、そのことに満足しながら死んでいった男の生涯。世の中の大部分の人は、そのような生涯を送るのではないか。そんなメッセージを感じさせる作品である。



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