日本語と日本文化


大岡昇平「俘虜記」


大岡昇平は、1944年7月、35歳の時に補充兵としてフィリピンのミンドロ島に送られ、翌年の1月に米軍の捕虜になった。その後レイテ島の捕虜収容所に入れられ、そこで敗戦を迎えた。日本に復員したのはその年の12月のことである。疎開先の兵庫県に身を寄せて一段落したところで、東京に赴いて師であり友人でもある小林秀雄を訪ね、復員の挨拶をしたところ、小林から従軍記を書くように勧められた。こうした経緯を経て生まれたのが「俘虜記」である。従軍記が俘虜記になったのは、大岡の軍人としての生活よりも捕虜としての生活の方が長かったせいだ。彼にとっての戦地とは大部分が捕虜収容所だったのである。

大岡がミンドロ島に送られた頃には、日本の敗色は濃厚になっており、大岡は祖国の将来に幻想を持っていなかった。12月になって米軍がミンドロ島に上陸すると、大岡の身辺には死の気配が濃く漂うようになる。大岡は多くの同僚の敗残兵同様、生きて虜囚の辱めを受けるよりは、死を選ぶつもりであったが、どういうわけか死にきれずに、米軍の捕虜となってしまった。「俘虜記」はまず、どういういきさつで自分が俘虜となったか、そこのところを弁明することから始まる。大岡に限らず、当時米軍の捕虜になった日本兵の間では、自ら進んで投降したと他人に思われるほど屈辱的なことはなかったのである。大岡は他人の目を気にするほどの俗物ではないが、その他人の目と同じ目が自分の心の中にも居座っていて、その目に自分がどのように映っているかについては、敏感にならざるを得なかったのだ。

大岡が俘虜になったいきさつはおおよそ次の通りである。サン・ホセにいた大岡は1月16日にマラリアが発病し、一時生死をさまようような状態に陥った。マラリアでは死なずにすんだが、戦闘で死ぬ可能性が押し迫ってきた。1月24日に大岡の属していた分隊は、米軍の攻撃を避けてブララカオに移動することになった。マラリアから回復していない大岡にとって、この移動は過酷なものだった。大岡は死を覚悟した。おそらくその覚悟が、結果的に大岡の命を救うことになった。どうもそんなふうに、行間からは読み取れる。

俘虜になる直前、大岡はある決意をしていた。それは、自分の目の前に米兵が現れても、けっしてそれを殺さないというものだった。この決意は、色々なふうに解釈できる。大岡はそれを宗教的な感情と絡ませて、人類愛の発露だなどとも言っているが、単に戦闘意思がなくなったに過ぎないといううがった見方も成り立つ。大岡自身、その時の自分の意識の状態とそれに基づく人を殺すことへの嫌悪感が平和時の感覚だったといって、そうした見方にも一定の譲歩はしている。

案の定、孤立している大岡の目の前に若い米兵が姿をあらわした。大岡はすでに自分に言い聞かせていた通り、その米兵を殺さなかった。米兵は至近距離におり、殺そうと思えば簡単に殺せたはずだ。にもかかわらず大岡はその米兵を殺さなかった。そうこうしているうちに米兵は去り、大岡は眠りに陥った。そして再び目を開けた時には、米兵によって拘束される自分を見出したのである。時に1月25日の出来事だった。

この短い間に自分の身に起きたことを、大岡は後に何度も反省する。俘虜記の前半部分の主なコンテンツは、自分はいかにして俘虜となったか、またそのいきさつには日本兵として、というより一人の人間として良心にやましいところはなかったか、そのことをめぐる自問自答だと言ってよい。

外形から見れば、大岡は不意を突かれて拘束されたのであり、自分の意思で投降したわけではない。そういう意味では、大岡は自分の意に反して捕まったと言える。しかし、大岡の捕まる前の行動をよく見ると、捕まらずにすむような努力をした形跡がない。その一つは、自分の目の前に現れた米兵を殺さなかったことだ。もし、日本兵の標準的な態度にしたがってその米兵を殺していたら、米軍にそれなりの損害を与え、日本軍の負担を幾分かは少なくしたに違いない。しかしその代償として大岡は確実に殺されたであろう。だから、その時に米兵を殺さなかったという大岡の決断は、結果的には自分の命をも救うということにつながっているわけだ。

二つ目は、米兵が去った後、その場で眠り込んでしまったことだ。マラリアから十分に回復しておらず、体力が疲弊していた事情があるにしても、その場で眠り込むというのは、正常なやり方とはいえない。敵につかまったり、殺されたりのリスクが高いからだ。そのリスクを冒してまでも、その場に眠り込んでしまったというのは、大岡が兵士としての本分からだいぶ離れてしまっていたことの現れだと言える。それが、米軍によって簡単に捕虜にされた背景である、と言えなくもない。

こんなわけで、大岡が捕虜になったいきさつには、非常に複雑な要素がからんでいる。その要素の複雑な絡み合いを大岡自身自覚しているからこそ、「俘虜記」のなかで繰り返し言及せねばならぬと言う観念にとらわれたのでもあろう。大岡は、アッツ島で捕虜になった兵は、すべて身体に致命的な傷を受けて、全く戦闘力を失っていたとわざわざ言う。そういうことで、自分は大した傷を負ったわけでもなく、簡単に捕まってしまった。これはアッツ島で死んでいった兵士たちの手前も、恥ずかしいことではないのか。そう言った自責の念が大岡を苦しめたと思われないでもない。

大岡は、同僚の日本兵からも、また米兵からも、捕虜となったいきさつについて、執拗に聞かれ、そのたびに投降したのではなく捕まったのだと、憤然として答えている。自分の意思にもとづく投降と、意に反した拘束とでは、同じ捕虜になるにしても、動機に雲泥の差がある。そんな動機にこだわる大岡を米兵は嘲笑して、降服は別に不名誉なことではないという意味のことを言うのだが、それに対して大岡は、「降服について別に偏見をもっていないが、しかし敵の前に屈するのは、私の個人的プライドが許さない」と答えている。これも米兵には理解しがたいことに思われただろう。もっとも大岡は、「しかし囚人の自尊心が私を去った今、よく考えてみれば、私はこの銃を向けられたとき抵抗を放棄したのであるから、やはり『降服』していたのである。白旗を揚げて敵陣に赴くのと、包囲されて武器を捨てるのと、その間程度の差しかない」とも言っている。

大岡がこのように言うのは、戦争が終わった後のことだからで、戦争中には、「生きて虜囚の辱めを受けず」といったセンチメントを、当時の日本兵全員が、大岡のように戦争についてシニカルな者も含めて、共有していたわけである。

戦争へのシニカルな視点ということでは、大岡は、日本の戦争指導者たちの無能によって国民が塗炭の苦しみを舐めさせられていることに強い憤りの念をぶちまけているが、そうかといって、戦争そのものを批判する視点は大岡にはない。むしろ、日本国民が文明的な生活をしていられるのは国家の賜物なのだから、その国家のために国民が犠牲となるのは当然のことだ、というように考えていた。だが大岡がそのように言う国家とは、国民から遊離した超越的な存在ではなかった。国民個々の繋がりの上に立った、いわば国民の結びつきを体現した存在である。それゆえ、出征兵士の家族を、残された国民すべてで支えていると思ってもいたようだ。だから大岡は、米兵から、日本でも出征兵士の家族を(アメリカのように)周辺が支えているのかと聞かれた時に、アメリカのような個人主義の国でも兵士の家族を親族が支えているとするなら、日本のような国がそうであるのは当然のことではないかと憤然と答えたわけであろう。

ところで、筆者が「俘虜記」を読むのは半世紀ぶりのことである。学生時代に、「野火」を含め大岡の小説を何点か読んだのだったが、その折には、「野火」に強烈な印象を受けたのに対して、「俘虜記」のほうは印象が薄かった。「野火」が、テーマの意外性や文体の完成度において卓越していると感じたのに比べると、「俘虜記」は、文学と言うよりは個人的な体験記録を読んでいるようで、文体にも「野火」におけるような緻密さが感じられなかったからだと思う。しかし再読して見て、これ相応の意義を読み取るようになった。おそらく筆者が年をとったからだと思う。




  
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