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戦友:大岡昇平「俘虜記」


大岡昇平は「俘虜記」のなかで「戦友」という章を設けて、俘虜になる前に一緒に行動していた兵隊仲間のことを書いている。それを読むと大岡が、戦友の一人ひとりについてはかなり面白くない気持ちを抱いていた一方、日本軍全体の一員としての兵士については、かならずしも悪く思っていなかったという、ある意味矛盾した気持が伝わってくる。

大岡は俘虜収容所で再会した戦友たちの一人ひとりについて、その人間としての輪郭を描きながら、彼らについて否定的な結論を下している。要するに彼等は、人間としても劣っていたと言うのである。大岡は言う、「こう書いてくると、遺憾ながら我がミンドロの将校や補充兵がただ軍人として劣るばかりでなく、人間としても甚だ愛すべき存在でなかったことを認めざるを得ない。そしてもしこうした世に摺れた中年男の醜さが、戦場という異常の舞台に氾濫するに到ったのが、専ら彼等に戦意が足りなかったという事実に拠るとすると、国家が彼等を戦場に送ったのは、国家にとっても、彼等自身にとっても、遺憾なことであった」

戦友たちに認めた悪徳のうちで大岡がもっとも許せなかったのは、ある軍曹が人肉食いについて提案したことだった。そのときにその場に居合わせたものたちは、当の軍曹を含めて切迫した飢餓に直面していたわけではなかった。にもかかわらず人肉食いを提案するのは、別に不愉快な事情があるからにちがいない。そう思った大岡は、日本兵による人肉食いについて、それを人道的な見地から非難するという態度に出るのだ。大岡は書く、

「メデューズ号の筏上の悲劇は非難しえないが、俘虜の肉を会食した日本の将校は非難されねばならぬ。単に俘虜取扱に関する国際協定に違反するばかりでなく、贅沢から人肉を食うという行為が非人間的だからである。それは彼等の陣中美食の習慣と陰惨な対敵意識に発した狂行である。同様にわが黒川軍曹が同じ条件の下に飢えていた部下より先に、比島人を食うという観念を得たのは、明かに彼が日華戦争中に得た『手段を選ばず』流の暴兵の論理と、占領地の人民を人間と思わない圧制者の習慣の結果であった。こういう戦場の習慣が彼のうちの人間を抹殺するところまで進んでいたとすれば、これはもう一個の怪物である」

この文章からは、当時の日本軍のなかで人肉食いがかなり一般化していたとの大岡の認識が伝わってくる。大岡はその「習慣」にはげしく反発している。その反発が、大岡をして後に「野火」における人肉食いの場面を書かしめたのであろうか。

だが大岡は、こうした一部の日本人の悪行をもとに、日本軍全体を悪の集団であるかのごとく言い募ることにも反発している。戦友の一人に、上官から受けた仕打ちを根に持ち、そのことを理由に日本軍全体を悪し様に言うものがあったが、それを大岡は激しく非難している。「彼はこのことから、日本の軍隊について甚だ悪意ある意見を抱き、帰国後到るところで吹聴してまわっている。しかし卑見によれば、こういう自己の狭い経験の怨みつらみに基づいて、大きな組織全体を批判するのは浅はかであるばかりか、間違ってさえいる。自分を棚にあげて、他の欠点のみ論ずるという意味で浅はかであり、組織の現実のみ見てその目的を忘却しているという意味で間違っている。旧日本軍はその様々な封建的悪弊が兵士に忍苦を強いたから悪いのではなく、悪弊の結果負けたから悪いのである」

この辺の大岡の理屈はすこし苦しそうだ。こんなことを言えば、戦争に負けなければどんな悪弊でも許されるのか、と突込みを入れられるだろう。こんなことを言うなら、戦争という大きな目的の前では、兵士個人にまつわる小さな出来事は大目に見るべきだ、と言ったほうがましかもしれぬ。実際大岡本人は、戦場においては、自分より年下の上官からかなり理不尽な処遇を受けたにかかわらず、そのことをあげつらったりはしない。公の大儀のためには私の都合などけちなものだ、とするような権威主義的な発想が、大岡には色濃くまとわりついていたように見える。或は、一日本兵が日本軍そのものを悪く言い募るのは、天に唾するようなもので、吐いた唾は自分自身に降りかかってくると思っていたのかもしれない。

日本軍のなかには確かにどうしようもない人間もいた、と大岡は言う。しかし一部のそうした人間をもとに、日本軍全体を悪く言うのはフェアではない。「無論中には遅れた昇進、その他によって意地悪となった古兵もいたが、要するにこれは例外であって、これらの畸形児によって受けた被害を誇張して、旧日本軍全体を悉く悪漢であったかのように想像するのは、丁度前線で一部の者の犯した残虐を見て、日本兵を悉く人でなしと空想するのと同じく事実と符合しない」。たしかにそんなふうに決め付けられたら、その日本軍の一人の兵士であった大岡も浮かばれないであろう。

戦場を共にした戦友に比較すると、俘虜仲間とはもっと人間的な付き合いができた、そのような雰囲気が大岡の文章からは伝わってくる。無論俘虜仲間にもいやな人間はいたが、概ね気楽につきあえたのは、みな同じ俘虜仲間ではないかというさめた感情が働いていたためだろう。俘虜生活の中でも、主に現役時代の階級に基づくある種の上下関係のようなものはあったが、それは捕虜生活をこなしていくうえでの必要な規律の一環としてあったのであり、俘虜相互の人間関係のすべてにわたるものではなかった。個人的なレベルでは、俘虜たちはかなりの自由を享受していたわけである。

俘虜としての生活は、このようにかなりなレベルの自由と併せて、物質的には一日2700カロリーの給与と売店でのある程度の買物の機会に恵まれ、実に快適なものであった。それは戦場で命を賭して戦っている同胞の境遇に比べれば無論、一日二合ちょっとの米の配給で飢えをしのいでいた内地の人々よりも恵まれていた。そんなことから、俘虜の多くは俘虜時代こそが人生最高の時期であったと回想する者までいる始末である、そう大岡は言うのだ。

平等な人間としてのつきあいが、深い友情を育むかといえば、どうもそうではないらしい。大岡は俘虜時代に知り合った人々に、復員してもつきあおうと約束するが、結局復員後に大岡を訪ねた俘虜仲間は一人もいなかったということだ。彼等とのつきあい方が、大岡の思っていたような人間らしい深さを伴っていなかった、ということだろう。大岡自身もそのことを、苦々しい筆致で認めている。

こんなわけで大岡は、戦友という言葉が強い人間的な絆をあらわした言葉だとすれば、そんな言葉どおりに、人間同士の絆を戦友との間で結べなかったと言えよう。戦友という言葉は大岡にとって、色々な感情がない交ぜにあわさったなんとも言えない響きの言葉としてとどまったようだ。それは大岡にとって、愛惜の念を伴いながら思い出す言葉ではなく、苦々しい思い出を喚起する言葉であったようだ。


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