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戦場の性:大岡昇平「俘虜記」


戦場における性(セックス)といえば、強姦、慰安婦、男色ということになろうが、大岡昇平の「俘虜記」も、さらりとした筆致であるが、これらの事柄に触れている。これを読むと、大岡がこういう問題について、かなりクールな考えをしていることが透けて見える。

戦場における日本兵の強姦は、他人からの股聞きで、大岡本人の見聞ではないが、たとえば南京占領やその後の奥地での駐屯中に日本兵が現地の女性に強姦を働いた事例に触れている。大岡は、そうした事例を語る同輩の兵士には、罪の意識は全くなかったというのだが、大岡本人にも彼等を責める気持ちはなかったようだ。かえって強姦されたという中国の娘や妻が全く抵抗しなかった事実を上げ、自分は強姦という暴行を是認するわけではないが、人がそれを誇張していることを指摘したいのだと言う。そのうえで、暴行は何千年以来戦争につきものだったわけだから、「戦争に随伴する暴行を絶滅するには、戦争自体を止めるのが近道である」と変な理屈を述べている。

日本人が強姦を誇張するのは、一夫一婦制の結果たる偏見に災いされているからだ、とも大岡は言う。一夫多妻制や雑婚なら、女の操がこんなにも問題になることはない、とでも言いたいようだ。女の操という点では、アメリカは非常に頽廃していると大岡は言う。アメリカの妻たちは、夫が戦争で不在中に浮気に現を抜かしたが、そのことへの多少の罪悪感が、フロイディズムが繁盛する原因になった、と言ってフロイディズムにとんだとばっちりを喰らわしている。

慰安婦については、大岡は、日本人の従軍看護婦が日本兵の相手をさせられたというショッキングな事例を紹介している。フィリピンの山中で、部隊と行動をともにしていた従軍看護婦が、兵隊を慰安したというのだ。これは看護婦たちの同意を得たことなので、強姦とは異なるが、一日一人づつ兵士の相手をさせられ、拒絶すると食糧が与えられなかったというから、売春の強要と言えなくもない。食料と引き換えに相手になったわけだから。

日本人以外の従軍慰安婦については、大岡は触れていない。ただ、先ほどの看護婦と比較する形で、「職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが」などと言っているので、軍隊内でかなりひどい条件で性的搾取をうけていた女性たちがいたことを暗示している。

大岡は、捕虜になってからは、日本人の女を見ることはほとんどなかったが、やはり捕虜になっていた日本人の女たちを時折垣間見たときには、彼女たちを大和撫子として美しいとは感じず、かえって醜いと感じたと言っている。それは、毎日アメリカの雑誌で、セクシーな姿態をしているアメリカ女たちの表情を見ていたことの反動で、アメリカ女の彫りの深い顔に比べて日本女性の顔があまりに扁平に見えたからだと断っている。内地に帰還して毎日日本女性を見るようになってからは、また日本の女を美しく思うようになったと言うから、そのときの大岡の女性に対する嗜好が作られたものだったことを物語っているようである。

男色については、戦場では無論、俘虜収容所でもあまり目撃することはなかった。稀なケースとして、少年兵が古参兵に愛され、同衾するようなこともあったが、その場合でも、男色は精神的なレベルにとどまり、いわゆる「おかま」騒ぎに発展することはなかったと大岡は言っている。

しかし「終戦」の情報が俘虜たちに伝わると、さまざまな方面で弛緩と堕落が始まったなかで、男色についても、エスカレートしていったようだ。大岡はその様子を、「やがて俘虜は急速に堕落した」という言葉で表現している。だが、その場合でもいわゆる「おかま」騒ぎ、つまり鶏姦がはやることはなかったらしい。

そのへんのことを大岡は次のように書いている。

「大多数は無論各自、性的孤立に耐えていたが、こういういわば『男精男子』と『女精男子』との間には、時たま排他的結合が成立し、事件があり、感傷的な恋文が取交わされたりした。しかし一般に記録文学で誇張されているような『おかま』沙汰は、わたしの知る限りなかった。一体男子の同性愛において鶏姦の行われる率を、統計はすこし古いが、エリスは六パーセントと報告している・・・六パーセントの真の倒錯者は動物にも植物にも畸形というものがあるように在るであろう」

こういって大岡は、明治政府とともに鹿児島から全国に広がった「よかちご」趣味も、時代の変遷とともに廃れたというのであるが、大岡自身にはもともと、そういう趣味はなかったようである。もっとも時たま少年兵に対して可愛いと感じると言っているから、いわゆる「おかま」の愛ではなく、プラトニックなレベルでの少年愛は、潜在的には抱いていたのかもしれないが。

こんなわけで、強姦、慰安婦、男色といった性にまつわることがらの、日本軍における状態について語る大岡の筆致は、どこか冷え冷えとしている。あたかも、病理解剖の説明を聞かされているかのようだ。そうした大岡の姿勢は、性と言うものを、人間の本質にとって取るに足らない一要素に過ぎないと看破していることから来ているようだ。そこでいわゆる猥褻な図書の取り扱いについて、政府はもっと鷹揚になるべきだと言うわけなのであろう。大岡は言う、「私は『チャタレー』が猥褻文書という説に賛成である。ただ起訴はしなくてもいい。この本が社会に流す害毒とやらは、社会が別の法則で動いている以上、たかが知れたものだからである」


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