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敗戦と復員:大岡昇平「俘虜記」


大岡昇平にとって、日本の敗戦は1945年8月10日であった。この日は、日本政府が、国体の護持が保証されるならポツダム宣言を受け入れてもよいと意思表示した日であって、降伏を決定した日ではないのだが、アメリカ軍は戦地にいる日本兵の士気を弱める意図から、日本が降伏したという情報をばらまいた。大岡ら戦地の俘虜もそうした情報を聞かされたわけだ。その日を境にして、俘虜たちの意識は敗戦モードに入っていった。大岡もその一人であったから、「我々にとって日本降伏の日付は八月十五日ではなく、八月十日であった」と言うわけなのであろう。

日本が敗戦に向かって突き進んでいることは、大岡にはよくわかっていた。日本軍の劣勢は自分自身の身を以て体験していたわけだし、また「タイム」「ライフ」やアメリカ軍の情報誌「星条旗」などを通じて、戦局を掴んでいたようだ。八月六日の広島への原爆投下は、その日のうちに知った。これは大岡に非常な衝撃を与えたようで、「これは私が俘虜となって以来、祖国の惨禍によって真剣に衝撃を受けた最初である」と言っている。

祖国の惨状を思うにつけても、国民に塗炭の苦しみを舐めさせている日本の政治家、とりわけ軍部に対する大岡の怒りは大きかった。「今戦争を指導している狂人共は、どうせ行くところまで行かなくては気がすまないであろう。国民が何発原子爆弾を食おうと、彼等はいつまでも安全な地下壕で、桶狭間を夢みているだろう・・・その彼等が原子爆弾の威力を見ながら、なお降伏を延期しているのは、一重に自ら戦争犯罪人として処刑されたくないからであろう」。こう大岡は言って、「私は彼等を生物学的に憎む権利がある」と断言している。

戦争についてはつねにさめた見方をし、日本の戦争にも一定の意義を認めていた大岡にして、こうした口吻は、無責任な日本の指導者たちへの大岡の怒りがいかに激しかったかを物語っている。

そんな大岡のもとへ、八月十日に日本降伏の情報がもたらされた。それに接した大岡の反応にはかなり複雑なものがあったが、やはり祖国の敗戦を悲しむ気持ちが、その中心にあった。「私はふと慟哭の衝動をこらえた」という短い文章が、その気持ちをよくあらわしている。

しかし、俘虜たちの平均的な反応は、どんなかたちでも、戦争が終わるのはよいことだ、と言うようなものだった。彼らには日本が負けたことに伴うもろもろの不安よりも、とりあえず生きて日本に帰れるという希望のほうが、大きな意味を持っていたのである。そういう点では、大岡の周辺にいた日本軍の残骸である個々人は、もはや自分自身を大日本帝国と一体化して考えるという、それまでの強要された習性をかなぐり捨てて、一人の自然人になっていたわけである。

戦争が終わると、各地で武装解除された日本兵がアメリカ軍の支配下に入り、そのうちの一部が大岡らのいる俘虜収容所へ送られてきた。これら新しい俘虜と大岡ら古い捕虜とはなかなか溶け合わず、互いに反目しあった。新しい俘虜は、自分たちは敗戦の結果敵軍の前で武装解除したのであって、投降したわけではない、それに対して古い捕虜は、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に違反して捕虜となった、として軽蔑した。一方古い捕虜は、自分たちは自発的に投降したわけではなく、やむを得ずに捕らえられたのだ、それに対して新しい捕虜は自発的に投降した、と言って軽蔑した。古い捕虜のなかには、「あいつら(古い捕虜)は敵だ」と言うものさえいた。

どちらの言い分に理があるのか、大岡は判断していないが、しかし新しい俘虜を見るにつけても、自分が捕虜になったいきさつについて、くりかえし考えずにはいられなかった。その辺は、俘虜という身分をめぐる、戦前・戦中の日本軍の思想が、兵士の一人ひとりをいつまでも呪縛したいたことを物語っている。

戦後いろいろな情報が俘虜たちにもたらされた。その中には、東条英機が狂言自殺をやりそこなったことや、山下奉文がフィリピンでの日本軍の残虐行為の責任を部下になすりつけたというものもあって、俘虜たちを憤慨させた。また、「今度の戦争が『敗戦』したのではなく『終戦』したのであり、その結果日本に上陸したのが『占領軍』ではなく『進駐軍』であること」などを知らされた。

俘虜たちを暗い気持ちにさせたのは、内地が戦争で疲弊し、食うものにもことを欠いているということであった。それに比べれば、「今我々の享受している二千七百カロリーの食料は思いもよらない。ここにいれば昼間形式的な労働に服するだけで、夜は酒を飲み、歌を歌っていればいいのである」

やがて俘虜たちに日本へ帰還する日がやってきた。帰還にあたってはそれ用に部隊編成がなされた。その際大きな問題となったのは、日本へ帰れるものと、帰れないものとの色分けがなされたことだ。これは、日本兵の中でフィリピン人への残虐行為を働いたなど戦争犯罪の嫌疑があるものは、そのまま残されて裁きを受けなければならないからであった。アメリカ軍は、フィリピン人たちに、日本兵から蒙った被害の届出をさせたのであるが、その際にフィリピン人が言及した日本兵の名と同じ名の兵士はすべて残されたのである。日本兵は現地で偽名を使うことが多く、それらの偽名はありふれた名であることが多いので、それと同じ名の兵隊がワリを食って足止めされたわけである。大岡は、苗字が珍しいということもあって、こうしたことのとばっちりは受けずにすんだ。

日本への帰還についてもっとも懸念されたのは、米軍の俘虜となった自分を日本の人たちが許してくれるだろうかという不安だった。大岡は、妻が実家の兵庫県に疎開していた関係で、とりあえずそこに身を寄せるつもりでいたが、そこの人々が、果たしてどのように自分を迎えてくれるか、不安だったのだ。その不安は結局杞憂に終わった。日本の人々は、自分が俘虜となったことは問題とせず、生きて帰ってきたことを素直に喜んでくれたのである。

大岡らを乗せた船は十一月の末にフィリピンを出航した。その船というのは、日露戦争の折、日本海海戦で大活躍したあの「信濃丸」であった。この船は軍艦としての現役を引退したあと民間漁業会社の鮭工船として使われていたのを、戦後海外の日本兵を内地に運ぶために動員されたのである。信濃丸は二千人の日本兵を乗せて日本に向かった。その上陸予定地は博多である。同時にフィリピンを出航したもう一隻の船(米船)は浦賀に上陸することになっていた。旧日本兵の復員は舞鶴を通して行われたと思っていた筆者には、これは新たな情報だった。

出航後しばらくして、二人の病人が死んだ。彼等の不運を目の前にして、大岡は次のように、自分に言い聞かせる。

「祖国を三日の先に見ながら死んだ人達は確かに気の毒であった。しかし、彼等が気の毒なのは戦闘によって死んだ人達が気の毒なのと正確に同じである。私とても死んだかもしれなかった。自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情しないという非情を、私は前線から持って帰っている」

大岡のように強い倫理観で自分を支えている人間にさえ、戦争はこのようにシニックな態度をとらせるにいたる、ということであろうか。

なお、この本の中で大岡は、「俘虜」という言葉と「捕虜」という言葉を、区別して使っている。その上で自分は、捕虜ではなく俘虜だと言い張っている。


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