日本語と日本文化


俘虜になった日本人:大岡昇平「俘虜記」


大岡昇平は1945年1月25日にミンドロ島の山中で米兵に拘束されてから、同年11月30日頃復員船に乗り日本へ向けて出発するまでの十ヶ月あまりを米軍の俘虜として暮らした。このうち最初の二ヶ月間はミンドロ島及びレイテ島の野戦病院で戦病者として入院生活をし、後半の約八ヶ月をレイテ島の俘虜収容所で暮らした。その日々のうち、8月15日を境として、それ以前は戦争中における純然たる俘虜の身分に、それ以降は敗戦国の残兵として復員を待つ身分におかれた。大岡が戦後初めて日本の地を踏むのは12月の中旬であるが、「俘虜記」は日本へ向かう船を描写するところで終わっている。

捕えられた大岡はまずミンドロ島西部のサンホセ野戦病院に送られたが、そこで久しぶりに同胞の兵士を見たとき、大岡を襲ったのは羞恥の感情であった。同じく俘虜の境遇に陥っている日本人の情けないさまを見たことで、自分の俘虜としての境遇が非常に恥ずかしく思われたのだ。大岡はそれを、「同胞がなお生命を賭して戦いつつある時、自分のみ安閑として敵中に生を貪るのは、いかにも奇怪な、あるまじきことと思われた」と語っている。

しかし、そうした羞恥の感情は次第に消え去っていった。俘虜といえども生きていかねばならぬのであるし、したがっていつまでも羞恥にこだわっているわけにはいかないからだ。

数日後(1月29日)、大岡はレイテ島の俘虜病院に移された。そこには250人の俘虜が収容されていた。病院内での暮らしはそんなに悪いものではなかったようだ。米軍が思いのほか寛容だったこともある。「私は米軍の寛容に馴れ、むしろ彼らの賓客のような気持で、うかうかと自分が囚人であることを忘れていた」と記しているくらいである。

一方、日本人俘虜の間には、軍隊の序列がそのまま持ち込まれ、上位のものは当然のことのように下位のものにいばりくさった。大岡の上官であった分隊長も同じ病院に収容されてきたが、これも大岡に向かって上官風を吹かせた。大岡はそれに対して、辟易としながらも唯々諾々と従ったのである。このような兵士同士の関係は、収容所本体においても同じだった。上位のものはあいかわらず下位のものに対して威張りくさった。しかし、こうした関係に大岡は嫌悪感をぶちまけながらも、それを全面的に否定してはいない。このような境遇に陥った人間の間で、そこだけに通用する新しいルールを作るのは難しいことだし、やはり今までの関係をそのまま適用することのほうが、大きな眼で見れば便利なのである。

ただ、将校は下士官以下の兵隊とは分離され、別途収容された。将校が一般兵士を組織して暴動を企むのを防止する措置だったと思われる。これは、英米の兵士が、捕虜になってもまだ現役の秩序に従い、したがって将校も一般兵士も一緒に行動するのを原則としていることとは反した措置だ。ともあれ、英米各国が兵士に対して、捕虜になった場合どうふるまうかについても教育していたのに比べれば、日本軍はそのような教育を一切していなかった。そのため、捕虜になった日本兵たちは、現役での規律をそのまま踏襲するよりほかに、方法を知らなかったとも言えよう。

大岡によれば、日本の軍隊の悪徳をもっとも典型的に体現しているのは炊事兵と衛生兵ということらしいが、彼らは俘虜収容所においてもその悪徳を存分に発揮した。米軍は俘虜の中から一定のものを選抜して。勤務員という名目で協力させたのであるが、彼らはその名目を威光にして、あいかわらず悪徳振りを発揮し続けたのである。「しかし私は今ここで彼らの悪事を数えたてることはしないつもりだ。何等かの意味で私自身のさもしさを露呈せずには、彼等の下劣さは描けないからである」と大岡は言う。

一方俘虜の中には気のやさしい人間もいた。大岡は、病院と収容所での暮らしを通じて何人かの俘虜と親しくなったが、それらの俘虜はだいたいが農民の出身であった。大岡は自分と彼らとがひきつけあったのは、「何か彼らと私の間に共感の原理があるに違いない」と言っている。その原理とは、世の中の地位よりも、人間としての誠実さを基準にして人付き合いをするということのようだ。サラリーマン出身の兵士は、だいたいが人を地位によって品定めし、上っ面の付き合いしかしていないのと比べれば、自分や農民出身の兵士たちは、人間の本当の価値に相応しい付き合い方を選んでいると言いたいようである。

大岡がもっとも憎んだタイプの人間は、他の人間を自分の利益のためにいいように使い捨てるような人間である。たとえば、運送屋を大岡は軽蔑しているが、それは運送という業務が、たいした元手も必要とせず、もっぱら他人の労働を差配することで利益を得ているからである。それに対して農民は、自分の体を使って仕事をする。彼らが運送屋と比較して格段に誠実なのは、そうした日頃の働き方と関連しているのだ、と大岡は言いたいようである。

兵士たちの相互関係といえば、日本軍隊のマイナスイメージの典型として、いわゆる内務班での生活ぶりが問題とされる。内務班というのは、軍隊での日常生活が展開される場であるが、これが暴力に毒された空間だったということを、野間宏の「真空地帯」とか安岡章太郎の「遁走」といった小説が、戦後しばらく経ってから暴き出した。それらを読むと、日本軍の陰惨な側面が強い印象を与えるわけであるが、大岡は、そうした側面については、ほとんど無関心である。収容所内で暴力が揮われた例は、極端なケースを除いては触れられていないし、現役時代にそのようなことがあったとも言及されていない。おそらく大岡の場合には、問題として取り上げるに値するような、日常的な暴力というものは眼にしなかったと思われる。それが、大岡の属した部隊の(中年の補充兵中心という)特殊な性格から出ていたのか、それとも戦争末期で、しかも敗戦濃厚な状況のなかで、日本軍が組織として崩壊しつつあるという特殊な状況に由来していたのか、詳しくはわからない。とにかく、大岡本人は、野間や安岡のような、軍隊内の暴力ということへの関心は、ほとんど示していない。

大岡は三月中旬にレイテの収容所に入れられた。「そこにはルソン島南部以南、レイテ島までの比島群島で捕らえられた、約七百の陸海将兵が収容されていた。内四百はレイテ島に注入された総兵力十三万五千から生き残った者である」

これらの俘虜の同胞たちを見たときに大岡が感じたのは「堕落」ということだった。「彼らは多く自らの意に反して捕らえられた人たちであるが、既に三ヶ月を収容所で過ごして、俘虜の生活に馴れていた。彼らは豊かな米軍の給与によってよく肥り、新しい集団的怠惰に安んじて、日々の生活を楽しむ工夫を始めていた」。そんな安楽な生活が俘虜になった日本人たちを堕落させた、そう大岡は感じたわけだが、後には自分自身もそうした堕落した人間の一人になりゆくことを思い知らされることになる。

大岡は、自分自身も含めて、日本人の堕落がいかにも忌々しかったのだろう、次のような皮肉を吐いている。「一度俘虜の味を覚えた日本人は、戦いが不利になれば猶予なく武器を捨てるだろう。彼等はかつてその真の意味を反省せずに身命をなげうった如く、俘虜の身分が彼らに何を課しつつあるかを知らず、ただその甘味に酔ってしまった。今後彼等は相手を選ばないだろう。日本人を傭兵として使うことは誰にも薦められない」

大岡の俘虜についての反省はなおも続く。「彼ら(米兵)は支配し、我々は生きていた。しかし生きている俘虜は真に生きているということができるであろうか。彼等は人間であろうか」




  
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