能「求塚」:葦屋の菟原処女と生田川伝説
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能「求塚」は観阿弥、世阿弥親子の合作といわれる。観阿弥によって作られた曲に世阿弥が手を入れたというが、たしかに前半部分には世阿弥らしい優雅ささが伺えるのに対して、後半部分は荒々しさが溢れているところが、観阿弥らしさを感じさせる。
原作となったのは、万葉集に収められている高橋虫麻呂の長歌である。この長歌は芦屋の菟原処女(うないおとめ)が二人の男に同時に愛され、葛藤に苦しんで自殺するという歌物語であるが、後に大和物語の一節が、この長歌をもとにして悲恋物語をつくった。それが後に生田川伝説につながった。観阿弥はその生田川伝説をよりどころとして、この曲を作ったのだと思われる。
虫麻呂の長歌は、二人の男に思われて。悩み抜いた挙句に死を選ぶ乙女心が歌われているのであるが、大和物語(147段)は、是に加えて、二人の男が一羽の水鳥を同時に射て、一人が頭を、一人が尾を打つという場面がある。能では、この水鳥を撃たせたばかりに、死後この水鳥が鉄鳥となって、乙女の頭をついばむという陰惨な場面が展開される。それがあまり陰惨だというので、観世流では長らく廃曲にされてきたという経緯がある。
場面は前後二段からなる。前段では、芦屋の小野を背景に、菜を摘む三人の乙女と旅の僧とが長閑な問答を行う。僧は生田川伝説にいう「求塚」はどこかと尋ねるのだが、乙女たちはまともに答えようとはせず、歌を歌いながら菜を摘み続ける。そのうち肌寒くなってきたので帰ろうとするが、一人だけが後に残って、僧たちに求塚を案内しようという。そして塚に案内した後、自分はその中に消えてしまう。
後段では痩せ衰えた姿に変った乙女の亡霊が現れ、自分が生前に冒した罪(二人の男を死なせたことや、水鳥を虐げたこと)によって、地獄に落ちたあと、如何にひどい責め苦を受けているかについて、延々と訴える。しかしついには僧たちの読経の功徳によって救われるという筋書きである。
乙女自身には何らの責任も落ち度もないにかかわらず、なぜそんな不合理な目にあわねばならぬのか、現代人には理解できがたい部分があるが、中世の日本では、こうした不合理も因果のひとつのあり方として、自然に受け取られていたのだろう。でなければ、こうした作品が世の中に迎えられたはずもない。
ここでは、先日NHKが、観阿弥生誕680年、世阿弥生誕650年を記念して放送した番組を紹介する。シテは観世清和、ワキは福王茂十郎だった。
囃子方と地謡が座につくと、後見が塚の作り物を運んできて、囃子方の前面に据える。そこへワキの一行三人が登場する(以下テクストは「半魚文庫」を活用)
ワキ、ワキツレ二人次第「ひなの長路の旅衣。ひなの長路の旅衣。都にいざや急がん。
ワキ詞「これは西国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。唯今都に上り候。
道行三人「旅衣八重の塩路の浦伝ひ。八重の塩路の浦伝ひ。舟にても行く旅の道。海山かけてはるばると。明し暮して行く程に。名にのみ聞きし津の国の。生田の里に着きにけり。生田の里に着きにけり。
ワキとワキツレが脇座につくと、シテツレが二人現れ、ついでシテが現れる。彼女らは、まだ雪の消えやらぬ早春の野辺に、若菜を摘みに来たのだと歌う。
シテツレ一セイ「若菜摘む。生田の小野の朝風に。なほ冴え返る袂かな。
ツレ二ノ句「木の芽も春も淡雪に。
シテツレ「杜の下草。なほ寒し。
シテサシ「深山には松の雪だに消えなくに。
ツレ「都は野辺の若菜摘む。頃にも今やなりぬらん。思ひやるこそ床しけれ。
シテ「こゝはまたもとより所もあまざかる。
ツレ「ひな人なれば自ら。うきも命のいく田の海の。身の限にてうきわざの。春としもなき小野に出でて。
下歌「若菜摘む。いく里人の跡ならん雪間あまたに野は成りぬ。
上歌「道なしとてもふみ分けて。道なしとてもふみ分けて。野沢の若菜けふつまん。雪間を待つならば若菜も若しや老いもせん。嵐吹く森の木蔭小野の雪もなほ冴えて。春としも七草の生田の若菜摘まうよ。生田の若菜摘まうよ。
彼女ら向かって僧が、この土地のことを訪ねる。
ワキ詞「いかにこれなる人に尋ね申すべき事の候。生田とは此あたりを申し候ふか。
ツレ「生田と知し召したる上は。御尋までも候ふまじ。
シテ「処処の有様にも。などかは御覧じ知らざらん。
詞「先は生田の名にしおふ。これに故有る林をば。生田の森と知し召さずや。
ツレ「また今渡り給へるは。名に流れたる生田川。
シテ「水の緑も春浅き。雪間の若菜摘む野べに。
ツレ「すくなき草の原ならば。小野とはなどやしろしめされぬぞ。
シテツレ「三吉野志賀の山桜。立田初瀬の紅葉をば。歌人の家に知るなれば。処に住める者なればとて。生田の森とも林とも。知らぬ事をな宣ひそよ。
ワキ「実に目前の処々。森を始めて海川の。霞み渡れる小野の景色。
詞「実にも生田の名にしおへる。さて求塚とは何処ぞや。
この土地が生田と聞いた僧は、生田川のほとりに作られたという求塚のありかを聞く。それに対して乙女たちはまともに相手にせず、せっせと若菜を摘み続ける。その挙句に寒くなったと言って帰り支度にかかる。
シテ「求塚とは名には聞けども。真はいづくの程やらん。わらはも更に知らぬなり。
ツレ「なう/\旅人よしなき事をな宣ひそ。わらはも若菜を摘む暇。
シテ「御身もいそぎの旅なるに。何しに休らひ給ふらん。
ツレ「されば古き歌にも。
地下歌「旅人の道さまたげに摘む物は。生田の小野の若菜なりよしなや何を問ひ給ふ。
上歌「春日野の。飛火の野守出でてみよ。飛火の野守出でてみよ。若菜つまんも程あらじ。其如く旅人も。急がせ給ふ都を今幾日ありて御覧ぜん。君が為春の野に出でて若菜つむ。衣手寒し消え残る。雪ながら摘まうよ淡雪ながら摘まうよ。沢辺なるひこりは薄く残れども。水の深芹かき分けて青緑色ながらいさや摘まうよ。色ながらいさや摘まうよ。
ロンギ地「まだ初春の若菜にはさのみに種はいかならん。
シテ「春立ちて朝の原の雪見れば。まだ古年の心地して。ことし生は少なしふるはの若菜つまうよ。
地「古葉なれどもさすがまた。年若草の種なれや。心せよ春の野辺。
シテ「春の野に/\。菫つみにと来し人の。若菜の名や摘みし。
地「げにやゆかりの名をとめて。妹背の橋も中絶えし。
シテ「佐野の茎立わか立ちて。
地「緑の色も名にぞそむ。
シテ「長安の薺。
地「からなづな。白み草も有明の。雪に紛れて摘みかぬるまで春寒き。小野の朝風また森の下枝松たれて。何れを春とは白波の。河風邪までも冴返り。吹かるゝ袂もなほ寒し。摘み残して帰らんわかな摘みのこし帰らん。
二人の乙女が帰ったあと、一人残った乙女に、僧がなおも語りかける。求め塚がどじょにあるかと問い続けるそうに僧に向かって、乙女はこれがそうだといって、堆い塚を示す。そして求め塚の由来について、問われるままに語る。
乙女はひととおりの物語を語った、自分はその責め苦を追って苦しんでいるから、是非助けてほしいと言い残して、塚の中に消えていく。
ワキ詞「不思議やな若菜つむ女性は。皆々帰り給ふに。何とて御身一人残り給ふぞ。
シテ詞「さきに御尋ね候求塚を教へ申し候はん。
ワキ「それこそ望にて候御教へ候へ。
シテ「こなたへ御入り候へ。これこそ求塚にて候へ。
ワキ「さて求塚とは。何と申したる謂にて候ふぞ。委しく御物語り候へ。
シテ「さらば語つて聞せ申し候ふべし。昔此処にうなゐ乙女のありしに。又その頃さゝだ男ちぬのますらをと申しゝ者。かのうなゐに心をかけ。同じ日の同じ時に。わりなき思の玉章を贈る。彼の女思ふやう。一人になびかば一人の恨深かるべしと。左右なうなびく事もなかりしが。あの生田川の水鳥をさへ。二人の矢さきもろともに。一つの翅に中りしかば。其時わらは思ふやう。無慙やなさしも契は深緑。水鳥までも我ゆゑに。さこそ命はをし鳥の。つがひ去りにしあはれさよ。住みわびつ我が身捨てゝん津の国の。生田の川は名のみなりけりと。
地「これを最期の詞にて。これを最期の詞にて。此河波に沈みしを。取り上げて此塚の土中に籠め納めしに。二人の男は此塚に求め来りつゝ。いつまで生田川流るゝ水に夕汐の。さし違へて空しくなれば。それさへ我が科に。なる身を助け給へとて塚の中に入りにけり塚の中にぞ入りにける。
中入りは、通常と異なり、シテが舞台上で作り物の中に入る。そこで衣装を取り換えている間に、狂言が登場して、生田川伝説をおさらいしたうえで、この不幸な乙女が成仏できるように、僧に読経して欲しいと薦める。
間狂言が去ると、ワキの待ち歌に誘われて、シテが作り物の中から現れる。前半では若女の面だったものが、後半では痩女面に変っている。この痩女面は、菟原処女専用の特別なものだという。
ワキ、ワキツレ二人待謡「一夜臥す牡鹿の角の塚の草。牡鹿の角の塚の草。蔭より見えし亡魂を。弔ふ法の声たてゝ。南無幽霊成等正覚。出離生死頓証菩提。
後シテ「おう広野人稀なり野人稀なり。わが古墳ならで又何者ぞ。骸を争ふ猛獣は。去つて又残る。塚を守る飛魄は松風に飛び。電光朝露なほ以て眼にあり。古墳多くは少年の人。生田の名にも似ぬ命。
地「去つて久しき故郷の人の。
シテ「御法の声は有難や。
地「あら閻浮恋しや。
地「されば人一日一夜をふるにだに。一日一夜をふるにだに。八億四千の思あり。況んや。我等は。去りにし跡も久方の。天の御門の御代より。今は後の堀川の御宇にあはゞ。我も二たび世にも帰れかし。いつまで草の蔭。苔の下には埋れんさらば埋れも果てずして。苦は身をやく火宅の住家御覧ぜよ火宅の住家御覧ぜよ。
シテは読経の声が有難いと云いつつ、自分が地獄で蒙っている責め苦の耐え難さについて訴える。
ワキ「わら痛はしの御有様やな。一念ひるがへせば。無量の罪をも遁るべし。種々諸悪地獄鬼畜生。生老病苦以漸悉令滅。はやはや浮び給へ。
シテ「ありがたや。この苦の隙なきに。御法の声の耳にふれて。大焦熱の煙の中に。晴間の少し見ゆるぞや。ありがたや。
詞「恐ろしやお事は誰そ。何さゝだ男の亡心とや。偖此方なるはちぬのますらを。左右の手を取つて。来れ/\と責むれども。三界火宅の住家をば。何と力に出づべきぞ。又恐ろしや飛魄飛び去る目の前に。来るを見れば鴛鴦の。鉄鳥となつて黒鉄の。嘴足剣の如くなるが。首をつゝき髄を喰ふ。こはそも妾がなせる科かや。恨めしや。
僧は乙女の苦しみを和らげるため、お経を唱え続ける。しかしその甲斐もなく、乙女は救われるどころか、地獄の獄卒に追い立てられて、地獄へと舞い戻っていくというのである。なんとも凄惨な物語だ。
詞「なう御僧此苦をば。何とか助け給ふべき。
ワキ「実に苦の時来ると。云ひもあへねば塚の上に。火焔一群飛び覆ひて。
シテ「光は飛魄の鬼と成つて。
ワキ「笞をふり上げ追立つれば。
シテ「行かんとすれば前は海。
ワキ「後は火焔。
シテ「左も。
ワキ「右も。
シテ「水火の責に詰められて。
ワキ「せん方なくて。
シテ「火宅の柱に。
地「すがりつき取りつけば。柱は則ち火焔と成つて。火の柱を抱くぞとよあらあつや。堪へがたや五体はおき火の。黒煙と成りたるぞや。
シテ「而して起上れば。
地「而して起上れば。獄卒は笞を当てゝ。追立つればたゞよひ出でて。八大地獄の数々苦を尽し御前にて。懺悔の有様見せ申さん先等活黒縄衆合。叫喚大叫喚。炎熱極熱無間の底に。足上頭下と落つる間は。三年三月の苦果てゝ。少し苦患の隙かと思へば。鬼も去り。火焔も消えて。くら闇となりぬれば。今は火宅に帰らんと。ありつる住家はいづくぞと。闇さは闇しあなたを尋ね。こなたを求塚。いづくやらんと求め/\辿り行けば。求め得たりや求塚の。草の蔭野の露消えて草のかげ野の露きえ/\と。亡者のかたちは失せにけり/\。
ここで、そもそもの発端となった高橋虫麻呂の歌を紹介しておこう。
―菟原処女が墓を見てよめる歌一首、また短歌
葦屋の菟原処女(うなひをとめ)の 八年子(やとせこ)の片生ひの時よ
小放(をはなり)に 髪たくまでに 並び居る家にも見えず
虚木綿(うつゆふ)の籠りて座(ま)せば 見てしかと鬱(いふ)せむ時の
垣ほなす人の問ふ時 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の
臥屋(ふせや)焚き すすし競ひ 相よばひ しける時に
焼太刀(やきたち)の 手かみ押しねり 白真弓 靫(ゆき)取り負ひて
水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競へる時に
我妹子が 母に語らく 倭文手纏(しづたまき) 賤しき吾が故
ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあらめや
宍薬(ししくしろ)黄泉に待たむと 隠沼(こもりぬ)の下延(したば)へ置きて
打ち嘆き 妹がゆければ 茅渟壮士 その夜夢に見
取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い
天仰ぎ 叫びおらび 地(つち)に伏し 牙(き)噛み猛(たけ)びて
如(もころ)男に 負けてはあらじと 懸佩(かきはき)の 小太刀取り佩き
ところつら 尋ね行ければ 親族(やがら)どち い行き集ひ
永き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと
処女墓 中に造り置き 壮士墓 此方彼方に
造り置ける ゆゑよし聞きて 知らねども 新喪(にひも)のごとも
哭泣きつるかも(1809)
反歌
葦屋の菟原処女の奥城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ(1810)
墓の上の木枝靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも(1811)
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