日本語と日本文化


日本兵は何故皆殺しにされたか:児島襄「太平洋戦争」


1943年5月のアッツ島玉砕に始まり、日本軍は太平洋の島々に展開していた部隊が次々に全滅するという悲劇的な事態に見舞われた。その主なものを列挙すると、次のとおりである。

 1943年 5月 アッツ島 約2600人戦死 捕虜29人
 1943年11月 タラワ島 4690人戦死  捕虜146人
 1944年2月 クエゼリン島 約4800人戦死 捕虜263人
 1944年7月 サイパン島 3万人以上戦死 捕虜約1000人
 1944年7月 テニアン島 役15000人戦死 捕虜252人
 1944年8月 グアム島 18377人戦死 捕虜1250人
 1944年8月 ビアク島 10000人以上戦死
 1944年11月 ベリリュー島 10650人戦死 捕虜150人
 1945年3月 硫黄島 戦死21304人 捕虜212人

捕虜になったものは、戦傷病等により戦闘能力を失った状態で米軍に拘束されたと考えられるから、戦闘能力のあった日本兵はすべて戦死したと考えてよい。戦死とか、全滅といえば、そこに兵士個人の意思のようなものが介在するようにも受け取れるが、実際はそんな生易しいものではなかろう。これらの戦場においては、生きてその場にいた日本兵は、米兵によってことごとく殺されつくされたのである。

負けた側からいえば全滅、勝った側からいえば殲滅、要するにその場に居合わせた兵士がすべて死んだという戦いは、歴史上そんなにあるわけではない。負ける側は、一定の線で降伏することにより無駄な死を避けようとするし、勝った方も、戦いを引き延ばすことによって無意味な損害を出さないように努めるものだ。それに、戦争には捕虜が出るのはつきものであり、その場合の捕虜の取り扱いに関する国際的な取り決めも作られていた。それ故、日本兵も、なにも死に急ぐ必要はなかったのだし、米兵の方も、むきになって日本兵を殺しつくす必要もなかったはずなのだ。

それなのに、こんなにひどい事態が、連続的に起きたわけは、一体何だったのだろう、そういう疑問が湧いて出るというものだ。

ひとつには、「生きて虜囚の辱めを受けず」という、日本兵のメンタリティが、捕虜となるよりは死んだ方がましという態度をとらせたことがある。実際、敗北して追い詰められた日本兵は、白旗を上げる代わりに、万歳突撃をして、相手側の銃弾に身をさらしたのである。これは、言い方をかえた自殺である。

二つめは、日本兵に対する米兵のメンタリティのあり方だ。米兵も最初から日本兵を皆殺しにするつもりがあったわけではなく、積極的に投降を勧めたこともあった。しかし、日本兵は絶対に投降せず、自分の命と引き換えにしてでも、一人でも多くの米兵を殺すことにこだわった。こう感じた米兵は、日本兵を相手に自分の身を守るためには、殺すほかはないと思うようになった。それが日本兵の完全殺戮という事態を生んでいったのではないか。

米軍にとって、大きな教訓となったのは、タラワ島の戦いだった。ギルバート諸島の一角にあるこの小さなサンゴ礁に立てこもっていた約4800人の日本軍部隊(朝鮮人労働者約1000人を含む)を、約35000人の米軍が攻略、猛烈な爆撃をしながら、上陸したものの、日本軍による正面攻撃を受けて大きな損害を出した。米軍が一番悩んだのは、前面の敵を片づけたつもりで前進すると、背後から敵が現れて攻撃されるという事態だった。その時の日本兵は、全く死を恐れる様子がなく、銃で撃たれてもなお、気力を振り絞って向かってくる。そんな日本兵を見た米兵は、日本兵は人間ではなく化け物だと思うようになった。化け物には、いちいち人間的な感情など注いでいられない、見つけ次第に殺さなければ自分が殺される、こうしたメンタリティが米兵の間に浸透していったらしいのだ。

ここで児島氏は、興味深いデータを紹介している{下巻221ページ}。敵である日本とドイツに対する米兵の意識をアンケートしたものだ。それによると、「心から殺したい」は、日本兵44パーセントにたいしてドイツ兵6パーセント、「義務だからやむをえない」が日本兵32パーセント、ドイツ兵52パーセントだ。「もっと殺したい」は日本兵42パーセント、ドイツ兵18パーセント、「彼らも同じ人間だ」は日本兵20パーセント、ドイツ兵54パーセントだ。

この数字は、米兵の日本人に対する人種的な偏見を反映した部分もあるだろうと思うが、それ以上に、日本兵の死を恐れぬ戦いぶりが、薄気味悪く受け取られたことの結果とも思われる。日本兵は同じ人間と考えるのには、あまりにも異常だ、というわけだろう。

米兵の日本兵に対する恐怖感が、日本人を殺す際の残虐さにつながったと思料される。とりわけ、ベリリューや硫黄島での玉砕戦においては、米軍は、地下の穴に潜伏している日本兵を、爆弾を突っ込んで爆殺したり、ナパーム銃で焼き殺したりした。その殺し方は、一種マニアックだったとさえいえる。人間を殺すというよりは、害虫を撲滅するといった具合なのだ。

日本兵を害虫のようにみなすメンタリティが、一般の日本人を無差別に殺害した空襲や、沖縄における非戦闘員の殺害を、正当化させたのだと考えられる。いづれにしても、非人間的としかいいようがない。


    

  
.


検     索
コ ン テ ン ツ
日本神話
日本の昔話
説話・語り物の世界
民衆芸能
浄瑠璃の世界
能楽の世界
古典を読む
日本民俗史
日本語を語る1
日本語を語る2
日本文学覚書
HOME

リ  ン  ク
ブログ本館
万葉集を読む
漢詩と中国文化
陶淵明の世界
英詩と英文学
ブレイク詩集
マザーグースの歌
フランス文学と詩
知の快楽
東京を描く
水彩画
あひるの絵本




HOME日本史覚書昭和史




作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2012
このサイトは作者のブログ「壺齋閑話」の一部をホームページ向けに編集したものである