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連合艦隊司令長官山本五十六の戦死:児島襄「太平洋戦争」


連合艦隊司令長官山本五十六が戦死したのは1943年4月18日。ガダルカナルとニューギニア戦線で日本海軍は大打撃を受け、落日に向かって突き進み始めていたが、その落ち目を象徴するような事件だった。山本五十六の死によって、日本海軍は物理的にも精神的にも一層落ちこんでいったのである、と児島襄はいう(太平洋戦争)。

ニューギニア戦線は、ガダルカナル攻略と前後して展開された。最大の目標は島東南部にある米軍のポート・モレスビー基地を攻略することであった。ポート・モレスビーは日本にとっても、連合軍にとっても、戦略上非常に大きな意味を持つ基地だった。日本にとっては、南洋の指令センターであるラバウルから近く、ここを敵に抑えられていることは、航空機による攻撃を容易に許すことを意味した。

連合軍にとっても、ここを日本に渡すことは、アメリカとオーストラリアを結ぶ線が日本によって分断されるばかりか、オーストラリアが直接脅威にさらされることを意味した。どちらも、譲ることができなかったわけである。

日本軍は、ポート・モレスビーの北側の海岸地帯に上陸し、そこからポート・モレスビーを攻撃する戦略を立てたが、連合軍はそれを許さなかった。

日本軍はまず、シンガポールで手柄をたてた横山大佐率いる独立工兵第15連隊を先遣隊として、その後を堀井少将率いる第17軍南海支隊が続いたが、ジャングルの密林の中で、優勢な敵と交戦するうち、糧食の補給もとだえる厳しい状況に陥り、ほぼ全滅の憂き目にあった。

日本軍はさらに増援部隊を送り込んでポート・モレスビーの攻略を目指したが、制海権、制空権を連合軍に握られた状態で輸送もままならず、ガナルカナルと同じような泥沼の状態に陥っていった。

山本五十六連合艦隊司令長官が、ソロモン航空撃滅戦の陣頭指揮に立ち上がったのは、このような状況においてであった。このままでは、日本軍はじり貧になる、それを避けるためには連合軍の航空能力を殲滅する必要がある、連合艦隊に残された総力を挙げて、連合軍の航空部隊を叩こう、こういった悲壮な決意をもって立ち上がったのであった。

そのために山本長官が用意したのは、空母4隻の母艦機160機、基地航空部隊に所属する190機の計350機であった。かつてハワイ空襲には350機、フィリピン航空殲滅船には400機が参加したというのに、今回は長官自ら陣頭指揮にあたる大作戦にかかわらず、これしか用意できなかったということは、日本軍の航空能力がそれだけ深刻な状態に陥っていたことの証しだった。

1943年4月7日、敵の拠点ガダルカナルを空襲する作戦が始まった。350機は、ラバウルの東西南北4つの飛行場、カビエンの二つの飛行場などに展開し、そこからガダルカナルを襲った。その結果14日までに日本軍は、巡洋艦1、駆逐艦2、輸送船25を撃沈、輸送船2、小型船若干を大破、飛行機134機を撃墜、20機を地上撃破、という損害を敵側に与えた、これに対して日本側の損害は49機だった、と発表した。

しかしアメリカ側の調査によれば、アメリカ軍の実際の損害はこの数字をはるかに下回っていたという。日本側は敵の損害を過大に見積もっていたというのである。

ともあれ、戦果を天皇に報告したところ、天皇は非常に喜ばれたというので、山本長官は大いに気をよくした。(誤った情報で結果的に天皇をだませたことが嬉しかったのか)

そこで山本長官は作戦を一段落させて、前線の部隊を順次激励して回ることとした。その巡回の最中に、アメリカ軍に待ち伏せされ、撃墜されたのである。

山本長官のスケジュールは、米軍にすべて筒抜けになっていた。日本側の暗号を完全に読まれていたのである。山本長官を乗せた飛行機は、4月18日午前9時半頃にブーゲンビル島南端上空にさしかかる、そう想定したアメリカ軍は、ミッチェル少佐率いる戦闘機部隊18機を編成し、当日午前7時25分、ガダルカナルから飛び立たせた。

日本側は山本長官を乗せた長官機、宇垣参謀長を乗せた二番機のほか、戦闘機6機が護衛する体制で、午前8時頃ラバウルを飛び立ち、バラレ基地に向かった。そして一行がブーゲンビル島南端の上空付近に差し掛かった頃、ミッチェル部隊と遭遇したが、最初に敵を見つけたのはミッチェル部隊のほうだった。

ミッチェル部隊の戦闘機は、日本側の護衛機には目もくれず、まっしぐらに長官機に襲い掛かって機銃弾を撃ち込んだ。長官を乗せた陸攻機は翼の付け根から火を噴きだしながら、ジャングルに突入した。宇垣参謀長の乗った二番機も撃墜されたが、参謀長は奇跡的に一命を取り留めた。

当日の夜、現場に駆け付けた浜砂少尉が、長官機の状態を検分した。突入時の滑空でジャングルは長さ400メートル、幅30メートルにわたってえぐり取られ、二つに折れた飛行機の横に死体が散乱していたということだ。

山本長官の死は極秘にされた。国民の士気が低下するのを恐れたためである。またアメリカ側も山本長官殺害を秘密扱いにしたが、それは暗号解読の事実を隠すためである。4月19日のサンフランシスコ放送を通じて、「米陸軍戦闘機はソロモン北部において日本爆撃機2機、ゼロ戦6機と交戦、そのうち爆撃機2機、ゼロ戦2機を撃墜した。米軍は一機を喪失した」と発表しただけであった。


    

  
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