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悲劇のインパール作戦:児島襄「太平洋戦争」


インパール作戦に対して、児島襄氏は「悲劇の」という形容詞を冠した(「太平洋戦争」)が、筆者には「噴飯もの」という言葉しか思い浮かばない。この作戦は周知のとおり、無謀な作戦による当然視された敗北であったわけだが、帝国陸軍上層部の無能な連中の無責任な指導によって、何万という日本兵が無駄死をさせられたことを思えば、悲しみよりも憤りの感情が先立とうというものだ。

そもそもインパール作戦にどれほどの戦略的意義があったか、歴史的な評価に耐えるような説明は、誰もできないだろう。当時の帝国陸軍の表向きのいい方では、インパールを攻略することで、ビルマ防衛のための緩衝地帯を確保するとともに、インパールから北部ビルマを経て雲南に通ずる援蒋ルートを遮断する意味があるというものだったが、そんなことを表向きの理由にしていては、前線を限りなく拡大させる結果になるばかりだ。

もう一つの言い訳としては、チャンドラ・ボースへの顔向けとしてこの作戦に踏み切ったというものがある。チャンドラ・ボースはインド独立を目指して、1943年10月シンガポールで自由インド仮政府を樹立、日本がそれを承認するとただちに英米に宣戦布告した。日本と運命を共にする決断をしたわけだ。そのチャンドラ・ボースにインド解放の基地としてインパールをプレゼントしよう、そんな思惑もあったようなのである。チャンドラ・ボースはそんな日本に感謝しつつ、自らも6000の兵を、この作戦に投入した。

この作戦の指揮にあたったのは、第15軍司令長官の牟田口中将だが、どうもこの男の変な執念が作戦を暴走させた最大の要因だったといえるのではないか、筆者などにはそう思える。牟田口中将は盧溝橋事件の際の現場の司令官であり、シンガポール攻略でも名を馳せていた。そこでかねがね、日華事変によって大東亜戦争を始めたのは自分であるから、この戦争を終わらせる責任があるなどといっていたそうだが、インパールを攻略すればイギリスの戦意を喪失させ、戦争を早めに終わらせることにつながるはずだ、どうも本気でそう思っていたらしい。

実際には、ガダルカナルやニューギニアの敗北を契機にして、南方の全域にわたって日本は制空権を奪われていた。兵士の移動はもとより、兵站の確保という点でも、殆ど絶望的といってよいほど困難な状態に陥っていた。したがって、戦線を縮小して優勢な敵に備えることこそ重要なのに、戦線を拡大するなど狂気の沙汰といってよかった。仮にインパールを一時的に占領できたとしても、そこを長く持ちこたえることが不可能なことは、まともな頭脳を持った人間ならわかるはずの事だったのだ。

15軍の参謀長小畑少将などは、補給が困難なことを理由にこの作戦に大反対した。しかし牟田口中将は小畑参謀長を更迭して、己の信念、つまりインパール攻略を強行した。

牟田口中将がインパール作戦に投入した戦力は、直接の戦闘部隊だけでも3師団4万9600人、その他部隊を含めて総兵力約8万5000人であった。三師団のうち、31師団はインパール北方のコヒマを攻略してインパールへの補給ルートを遮断することを任務とし、15師団と33師団はそれぞれ東側と南側からインパールを攻略する作戦だった。

攻略部隊は、チンドウィン川を渡って、それぞれ前進したが、必要な物資は牛、馬、ロバの背中に積んで運んだ。彼らが持ち運んだ食料はわずか20日分、もし作戦が長引いて食料が不足するようなら、牛馬の肉でつなごうというのである。ジンギスカンの前例に基づいて、ジンギスカン式補給と呼ばれた。

しかしジンギスカン式補給はうまくいかなかった。途中牛馬が、川で溺れ死んだり、敵機の空襲に驚いて散りぢりに逃げ去ったりして、大部分の食料や資材が消滅した。こんなわけで、兵站の補給が続かない部隊は、早めの段階から飢えに直面するようになってしまった。

こんな状態だから、各師団の士気は上がらなかった。まず33師団の柳田師団長がインパール作戦の中止を牟田口司令官に意見具申した。彼はガダルカナルやニューギニアの経験から、航空勢力と補給を欠く作戦は必ず失敗するとの信念を持っていたのである。その信念はほかの二人の師団長も共有していた。

しかし牟田口中将は柳田師団長に前進を厳命した。それに対して柳田師団長は統制前進を以て答えた。一歩一歩時間をかけてゆっくりと前進するやり方だ。あきらかに牟田口中将への反旗といってよかった。

コヒマ攻略に向かった31師団は、一旦はコヒマを占領したが、敵側の手ごわい反撃を受けて、苦戦を強いられた。兵力において圧倒され、加えて飢えに苦しんでいた部隊は、壊滅的な打撃を蒙った。佐藤師団長は、このままでは1万数千の部下が全員無駄死すると懸念して、独断で退却を始めた。無論軍法会議にかけられて死刑になるのを覚悟のことである。

31師団の敗走は、15師団と33師団にも深刻な影響を与えた。15師団もあいついで兵士が戦線を離脱し、33師団はインド軍に包囲されて戦意を喪失した。こうした状態で、ひとり牟田口中将のみが総攻撃を叫んでいたが、誰もこの司令官の声に耳を傾ける者はいなかった。

戦意を失って敗走する兵士は、もはや兵士の集団ではなく、疲れ果てた人間の群だった。彼らは飢えに苦しみながら、ジャングル地帯をさまよい歩いた。

「道端には点々として負傷兵が横たわっていた。その目、鼻、口にうじ虫がうごめいている。伸びた髪の毛に真っ白にウジが集まり、白髪のように見える兵士が歩いていた。木の枝に妻子の写真をかけ、その下でおがむように息絶えた死体、マラリアの高熱に冒されて讒言を口走る者、ぱっくりあいた腿の傷に指を入れてウジをほじくり出す兵士・・・」

インパール作戦での損害は、戦死30502、戦傷病41978、計72480であった。一方イギリス側の損失は、戦死、戦傷病合わせて17587人であった。

なお牟田口中将は、敗北が決定すると我先に安全な地域に避難したと、後になって強烈な批判を浴びた。それでもこの男は終戦後まで無事に生きながらえ、晩年には「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と、自己弁護に終始し、自分のために死んでいった兵士のことについては、ひとことも語らなかった。

まことに唾棄すべき輩である。人間の屑とは、このような輩のことをいうのであろう。旧日本軍の幹部にはこのような輩が多かったといえる。日本が無残な敗戦を喫した理由の大きな部分は、強大な権力を手にしながら、それを自分の野心のために私した輩の、無責任極まる生き方にあったといってよい。


    

  
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