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バターン半島攻略と死の行進:児島襄「太平洋戦争」


フィリピン戦線の山場はバターン半島を巡る攻略になった。日本軍は開戦と同時にフィリピンのアメリカ軍基地を攻撃し、その戦闘能力をほぼ破壊した。これに対してアメリカは、早々とマニラ防衛を放棄して、バターン半島南部に篭城し、マッカーサーの司令部はマニラ湾の入り口にあるコレヒドール島の要塞に置かれた。フィリピンのケイソン大統領もマッカーサーと行動を共にした。

日本軍は12月22日にルソン島北西部のリンガエンに、24日には南東部のラモン湾に上陸し、南北からマニラに迫った後、翌1月2日には、たいした抵抗を受けることなくマニラを占領した。

マニラ占領軍の本間中将は、バターン半島に逃げ込んだアメリカ軍をどうしたらよいか、参謀本部に照会した。本間中将としては、半島の入り口と海上を封鎖して敵を兵糧攻めにし、自滅するのを待つか、それとも十分な兵力を準備して徹底的な攻撃をするか、このふたつのどちらかだろうと考えていた。

ところが参謀本部は、バターン撤退はたんなる敗走だとたかをくくって、奈良中将の第65旅団3000人に追撃を命じた。この部隊は、老兵が多く装備も貧弱なところに、リンガエン上陸後200キロの行程を突進し、へとへとに疲労していた。

対してバターン半島に陣取る敵は、米軍1万5000人、フィリピン軍6万5000人の計8万人、それが二重の防衛線を設けて待ち構えていた。奈良中将の追撃部隊は、いくつかの方面に別れて進軍したが、わずか3000人の兵力でしかも装備不十分で疲れ切ってきたということもあり、壊滅的な打撃をうけて敗退した。

本間中将としては、米軍を兵糧攻めにすればいずれ自滅するはずなのに、中途半端な兵力をもって追撃するのでは、いたずらに損害ばかりを出すからと、参謀本部の指示には批判的だった。それに対して参謀本部からは、他の戦線がいづこも大成功をあげているのに、フィリピン戦線だけがもたもたしているのは、司令官である本間中将がだらしがないからだといわんばかりだった。

結局参謀本部は、陸軍の名誉にかけてもバターン半島を攻略するという方針を立て、現地の参謀長を左遷して参謀本部作戦課長服部卓四郎みずから作戦を立てるとともに、辻政信中佐を作戦指導のために特派した。

一方マッカーサーのほうはどうかといえば、彼がもっとも恐れていたのは兵糧攻めだった。実際バターン半島の米比軍には二、三カ月分くらいの食糧しか用意がなかった。だから日本軍が海上封鎖をして兵糧攻めを行ったら、いくばくもなくして音をあげるところだった。そうなったら、マッカーサーは8万人の将兵を無駄に死なせた無能な軍人というレッテルをはられたことだろう。だが、日本軍は攻撃してくれた。そのおかげでマッカーサーは悲劇の英雄という評判をとることができた。

そのマッカーサーは、早い段階でコレヒドール島を脱出し、オーストラリアに避難する計画をたてた。この移動は、日本軍に制空権と制海権を奪われた状況下では、非常な危険を伴っていた。しかしマッカーサーは運が良かったのだろう。無事脱出を成功させ、あの「アイ・シャル・リターン」という言葉を残せたのである。ちなみにこの脱出には、フィリピンのケイソン大統領もつきあった。

マッカーサーとケイソン大統領がフィリピンを見捨てて逃げたことで、バターン島の米比兵の士気は一気に弱まった。それ故、今度は本格的な兵力を用意して攻め寄せてくる日本軍の敵ではなかった。

日本軍は4月3日に攻撃を開始し、4月29日の天長節までにはバターン占領を完成させるつもりだったが、なんと4月9日に米比軍は降伏した。

日本軍はそのあっけなさに驚いたが、さらに驚いたのはせいぜい3万人前後の残兵がいると考えていたところに、米兵1万2000人、フィリピン兵6万4000人、計7万6000人もいたほかに、難民と一般市民2万6000人がいた。

バターン攻略後には、コレヒドール攻略が待ったいたが、そのためには捕虜を速やかに後方に移送しなければならない。本間中将が河根少将に命じて作らせた捕虜輸送計画はつぎのようなものだった。

・マリベレス〜バランガ(30.4キロ)徒歩
・バランガ〜サンフェルナンド(57.6キロ)トラック
・サンフェルナンド〜カパス(20.8キロ)汽車
・カパス〜オドンネル(12.8キロ)徒歩

ところが、計画していたトラックは手に入らなかった。そのために捕虜たちは、マリベレスからサンフェルナンドまでの約88キロを徒歩で移動させられることとなった。世にいわゆる「バターン死の行進」である。

フィリピンの4月といえば夏の盛りである。その暑さと、飢えと、マラリアが重なり、捕虜たちは次々と倒れ、死体の山が連なったといわれている。日本側には捕虜を虐待しているという意識はなく、ただ食わせるものがなく、乗せるトラックが無く、治療するすべがなかったというだけなのが本当のところだろう。少なくとも、バターンにそのままとどめていれば、コレヒドール攻略の巻沿いを食って、大勢の兵が死ぬことになったかもしれない。

しかし相手側はそうは受け取らない。特にアメリカはこの「バターン死の行進」を、日本による捕虜虐待の最たるものとして宣伝した。この計画の責任者河根少将は、戦後このことの責任を問われて軍事裁判で処刑された。

とにかく、7万6000人いたとされる捕虜のうち、終点のオドンネル基地に収容されたものは5万4000人、差額の2万2000人がどうなったか、正確には分からない。フィリピン兵の中には、一般人にまぎれて逃走したものもいたというから、差額の全員が死んだとは思われないが、それにしてもかなりな数の捕虜がこの行進の最中に死んだことは間違いない。

児島氏は、以上に続けて次のような感想を漏らしている。

「死の行進よりも、バターン戦をいろどる不快事は、一部参謀の越権行為だった。今井大佐の記録によれば、4月9日午前11時頃、バターンの米比軍降伏に喜んでいると、第65旅団司令部から電話で、米比軍の投降兵を射殺せよという命令を伝えてきた。大本営命令だという。今井少佐は、ことは重大なので書面による命令を要求したが、のちに知ったところによると、これは辻政信中佐が各部隊にふれまわったもので、本間中将は全然知らなかった。今井大佐と同じく、慎重に考慮してこの命令の真偽を確かめた部隊もあったが、中には、異議に及ばず、捕虜を殺害した部隊もあった」

辻政信の名は、太平洋戦争の様々な局面で出てくるが、そのほとんどは、いかがわしい雰囲気に満ちている。このバターン攻略においても、同じような事態を引き起こしていたわけだ。その辻が敵視したという本間中将は、作戦終了後責任を問われる形で予備役に編入され、終戦後は「バターン死の行進」の責任を問われて処刑された。一方辻の方は、戦後連合軍の追及を逃れて潜伏し、後には国会議員にまでなった。


    

  
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