日本語と日本文化


アジア・太平洋戦争と大東亜共栄圏


1941年12月8日に始まり1945年8月15日の日本の全面降伏で終わったあの壮大な戦争を、歴史学者の吉田裕は「アジア・太平洋戦争」と呼んでいる(「アジア・太平洋戦争」(岩波新書))。戦争の最中、当事者である日本の指導者たちが使った大東亜戦争という言い方は、あまりにもイデオロギー的だし、かといって歴史学者の間でよく使われている太平洋戦争という言葉では、この戦争の規模がカバーしきれない。この戦争は、太平洋の島々にとどまらず、北は満州から南は東南アジアのほぼ全域をカバーする壮大な戦争だったのだ。

1941年12月8日の出来事も、真珠湾攻撃だけではなかった。それよりもわずかではあるが早い時点で、陸軍によるマレー侵攻作戦が始まり、同時にフィリピン上陸作戦が行われた。陸海両軍がそれぞれ威信をかけて、米英はじめとする連合国に戦争をしかけていった。その結果、戦線は次第に拡大し、西はインドシナ半島とビルマ、南はインドネシアのほぼ全域とニューギニア、東は中部太平洋に浮かぶ島々まで、実に壮大な範囲を占領するに至ったわけである。

何故こんなことをしたのか。つまりこの戦争の目的はなんだったのか。戦線開始の責任者である東条英機に対して昭和天皇が下問したことがあったそうだ。すると東条は俄には答えることができなかったという。いま研究中ですので、追って奏上申し上げるといったそうなのである。

戦争の最高責任者がこの始末であるから、日本がこの戦争を合理的な作戦に基づいて履行する可能性ははじめから低かったといわねばならない。彼らは目的も明らかではなく、また展望も持たない中で、やみくもに戦争に向かって突進し、挙句の果ては強大な敵を前にしてあえなく敗退したというわけだ。だからといって、これを笑い話として済ますわけにはいかないだろう。

実際には、満州事変から支那事変を経て全面的な戦争状態に陥った中国との関係の延長線上に、対米戦争をせざるを得ない羽目に自ら陥っていったというのが正直なところだろう。

アメリカとの戦争が何を意味するか、少なくとも海軍の方は分かっていた。アメリカとの戦争は長期的に見れば勝ち目はない、何故なら近代的戦争は総力戦の形をとるのであり、国力において圧倒的な差があるアメリカには、勝てるはずがない。もしその可能性があるとすれば、短期間でアメリカを完膚なきまでに叩き潰し、その戦意を喪失させる以外に方法はない。幸い1941年12月時点での戦力に限って言えば、日本はアメリカにまさるものを持っていた。短期的な戦争に終われば、つまりアメリカがあっけなく戦意を喪失すれば、日本にも勝てる見込みがある。

一方陸軍の方は、ドイツとの同盟の効果を過信するところもあり、対米戦については海軍ほど悲観的ではなかった。アメリカとの実力の差は、畢竟資源の差である。しからば、南洋の諸国を併呑してその資源を獲得すれば、アメリカに対抗できる実力はもてる。占領地を効果的に統治し、軍は占領地で自給自足しながら、日本にとって必要な資源を内地に送り続ける。そうすれば、戦争がたとえ長引いても、十分にやっていけるはずだ。こんな妄想を抱いていたわけである。

しかし現実はそんなに甘くはなかった。初戦の真珠湾作戦とマレー作戦は大成功に終わったが、わずか半年後の1942年6月には、日本海軍はミッドウェーで敗北し、8月にはガダルカナルの戦闘で日本軍は大敗北を喫し、以後制空権と制海権をアメリカに牛耳られることになる。戦争開始後わずか一年で、日本の敗色は歴然としたものになったのである。

しかし日本軍はいったん占領した地域を自分から手放そうとはしなかった。制海権を握られたことで、島々の間の補給ルートが遮断されたにもかかわらず、それらの占領地から撤退することはなかった。作戦上の常識からいえば、戦線を縮小して兵力を集中し、敵との戦いに臨むのが筋であるのに、伸びきった前線の各地に兵力・資源を分散させたまま、敵の攻撃に身をさらし続けた。

陸軍は終始意気堅硬なままだった。戦争を始めた当初は、目的の如何も言えなかったのだったが、アジアの広大な地域を占領し、それらの国々の人々を統治するうちに、選良意識が働いて、この戦争を合理化できるようにもなった。いわく「大東亜共栄圏」の創造、アジアの民衆を欧米のくびきから解放する聖なる戦争という位置づけである。

この意見は、靖国神社がこの戦争の意義附けとして今でも主張しているものである。アジアの国々は欧米の帝国主義によって奴隷化されている、その欧米を日本が追っ払って、アジアの国々を開放する、つまり大東亜戦争とは、日本がアジアの国々を欧米の支配から解放するための戦いなのであり、アジアの諸国民の利益にもなる、そう主張しているわけなのだ。

しかし日本に占領されたアジアの国々は、むろんそんな風に思うはずもなかった。中国では国共合作が成功し、国を挙げて抗日戦争に立ち上がった。日本は対米戦争と同じ程度の戦力を対中戦争にも裂かねばならなかった。そしてやがて必然化するであろう対ソ戦争にも備えて、関東軍の実力も温存していなくてはならなかった。二方面どころか多方面作戦を自らに課してしまったわけである。戦争のやり方としては最低のやり方だ。

吉田氏の著書「アジア・太平洋戦争」は、日本側の戦争への動機を掘り下げて解明するとともに、戦争に臨む日本の政治のお粗末な意思決定過程についてあぶりだしている。


    

  
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