日本語と日本文化


玉砕 生きて虜囚の辱めを受けず


昨年(2009年)の夏NHKは、海軍反省会の記録の検証を通じて、軍令部の暴走に集約された日本軍国主義の無責任な体質をあぶりだした。今年は、玉砕という言葉に焦点をあてて、軍国主義の指導者たちが、兵士や国民の命について、いかに鈍感で無責任であったかを追求している。

玉砕とは玉のように砕け散るという意味のようだが、これが軍事用語として用いられるときには、兵士の自発的な戦死という意味になる。自発的な戦死であるから、ひとつには戦局の圧倒的な不利という状況があり、他方には捕虜になることの禁止という内面的要請がある。兵士は絶望的な状況の中で、名誉ある死を遂げるために、自ら進んで死地に赴く、それが玉砕という言葉でカムフラージュされたわけだろう。

捕虜になることを忌避する態度は、日本軍の伝統に根ざしたものだった。兵士ひとりひとりに配布された軍隊手帳には、戦陣訓として「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉が記されていた。

これは、生きたまま捕虜になることは許されないという意味の訓示だ。日本軍の兵士たるもの、捕虜になるくらいなら、自ら死地に赴き自爆して果てるべきだ、というのであるから、自殺の強要とも言い換えられよう。

自殺は外部から強要される限りでは、死ぬものにとっては、無駄な死あるいは犬死に過ぎない。だが内面の意思に支えられていれば、それは崇高な行為になりうる。戦陣訓を通じて、常に兵士たちの自殺を期待した軍指導者はだから、彼らの死に崇高な意味を付与し、それによって戦意の維持を図るために、戦地のあちこちで日本軍の全滅という事態に直面するたびに、それを玉砕という言葉で飾り立てて、兵士の集団自殺を美化したのである。

大本営が始めて玉砕という言葉を使ったのは、昭和18年5月、アリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した際だった。全滅の報道の中で、大本営の報道官は山崎隊長以下アッツ守備隊全員の英雄的行為を称え、それが兵士たちの自発的な意思にもとづくものだったと発表した。

ところが実際には、山崎隊長以下は、本土からの兵士や物資の補給を要請し続け、最後まで生きることにこだわっていたと、番組はいう。そんな彼らを大本営はもてあまし、彼らを切り捨てたのだというのが実情だった、とかさねていうのだ。

アッツ島におけるような軍隊の全滅という悲惨な状況は、すでに前年から始まっていた。ニューギニアのブナやソロモン諸島のガダルカナルで、日本軍は全滅あるいはそれに近い壊滅的な敗北を喫していたが、大本営はその敗北を国民に隠して、うそをつき続けていた。だがもうこれ以上うそをついてはいられないと悟ったとき、全滅という悲惨なイメージをカムフラージュしようとして、玉砕という言葉に飛びついたのだ。

玉砕という言葉はそれ以来、独り歩きし始めた。それにともなって、死者の数もうなぎのぼりに増えた。日本はこの戦争で310万の死者を出したが、そのうちの大部分といえる200数十万人は、玉砕報道以降に死んだ人たちである。

玉砕という言葉の裏には、兵士の自殺を当然視する思想がある。その思想が一人歩きすると、兵士の命を軽んずる考え、つまり棄軍思想がはびこる。兵士の命を軽んずる考えは無論、国民全般の命を軽んずる思想につながる。ここに棄民思想が蔓延する事態が生ずるわけだ。

大本営海軍部の将校(富岡大佐)は、ニューギニアの部隊の全滅という事態をとりあげて、あの軍は敗残兵なのだから、死ぬのはあたりまえじゃないかといったそうだが、棄軍思想がよく伺われる言葉だ。こういう人間が指導者であるかぎり、日本軍は兵士や国民に責任をもった行動をとることなどありえなかったろう。またそんな連中でなければ、一億玉砕などという言葉を、軽々しく口にすることはなかったはずだ。

アッツ島の玉砕では2600人全員が死んだと思われていたが、実際には27人の兵士たちが生き残った。彼等は戦闘中に重傷を追って自殺も出来ない状況のなかで、米軍によって捕虜にされ、結果として生き残ったのだった。

番組はその生き残りの兵士三人の言葉を紹介していた。ひとりは「運悪く生き残ってしまった」と後悔し、ひとりは「どうして生きてしまったのだろう」と自門し、もうひとりは「生きて恥をかいた」と自責した。

いづれも「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を内面化してしまったために、こうして自分が生き残ってしまったことを、許されないこととしてしか受け入れられないのだ。


    

  
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