日本語と日本文化


司馬遼太郎の明治維新観


司馬遼太郎は明治維新を革命と捉えているようである。最大の理由は、これによって徳川時代以前の身分社会が解体されて、日本は基本的には国民がすべて平等である社会が実現したことだという。その一つの例として司馬が持ち出すのは、自分自身が見聞したことだった。

国語学者の藤堂明保は伊賀上野藩主の末裔だが、その人が学者をやめてアメ屋になりたいという話を聞いて、こんなことは徳川時代には考えられなかった、藤堂さんのような人がそう思うのは日本が平等な社会になったしるしだ、そう司馬は感心したそうである。また作家の有馬頼義は久留米藩主の末裔だが、この人は戦時中に中国戦線に駆り出され軍曹になった。つまりどんなに身分の高かった人でも、近代日本はすべて平等に取り扱った、そのような変化は革命と言ってよい。そう司馬は考えているようである。

明治維新は革命ではなく、権力が移行しただけだ、という見方に対しては、明治維新では「封建制が一挙に否定されたために、"階級"として得をしたものはなく、社会全体が手傷を負いつつ成立したので」あり(「この国の形一」)、そこはブルジョワジーのためのフランス革命や農奴のためのロシア革命とは異なる、と言っている。つまり社会の一部のものの利益のために権力の移行が起きたのではなく、社会全体がひっくり返るほどの大変動がおきたわけで、それは革命としかいえない、というわけである。

明治維新を革命というからには、徳川時代との断絶を強調するのかといえば、司馬の場合にはそうではない。むしろ徳川時代と明治以降とを連続の相において見たがるところがある。司馬によれば、日本の徳川時代というのは実に多様な社会で、一つの国家というよりは、多くの小国家が集まったような体裁を呈していた。そこで展開された多様性があったからこそ、日本人は柔軟な思考をする態度を身につけられたのであり、それによって明治以降速やかな近代化に成功した。そういって司馬は、徳川時代と明治以降を、基本的には連続したものとして捉えている。

司馬の面白いところは、徳川時代をも、それ以前の時代との連続性において見たがるところである。徳川時代を用意したのは戦国時代だが、その戦国時代は室町時代によって用意されたのであるし、室町時代は鎌倉時代に用意された。だいたいこんなふうに、司馬は日本史を、時代ごとに断絶したものとして捉えるのではなく、基本的には同じものの連続として捉えたがるところがある。司馬の想像力は大体鎌倉時代の初期くらいまでしか及ばないらしく、鎌倉時代に成立した日本の国のあり方、それを司馬は農民としての武士階級が国家の骨格を形作ったと考えるのだが、その鎌倉時代の日本のあり方を、それ以後の日本の歴史を連続的に推進した原理のようなものとして捉えているようである。

こんなふうに整理してしまうと、日本にはそもそも革命などというようなものがあったのか、という原理的な問いにつながるだろう。鎌倉時代に成立した国のあり方が、それ以降の日本の国のあり方の原理のようなものとなって、後続する時代は先行する時代からの延長として考えられるのであれば、革命などという言葉をあえて使う必要はない。にもかかわらず司馬が革命という言葉を使いたがるのは、厳密に科学的な意味合いにおいてではなく、作家らしい比喩として使っているのだろうか。




  
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