日本語と日本文化


司馬遼太郎の日本中世史観


司馬遼太郎は、日本の近代化を担ったのは薩長をはじめとした西南諸藩の下級武士たちだ、というざっくりした理解に立った上で、そうした武士階級というものが鎌倉時代の初期に成立して以来、日本という国のかたちを規定してきたと考えているようである。いわば武士階級一元論の歴史観といってよい。武士階級は日本の歴史を動かしてきただけではない。それは日本人のエートスというようなものとなって、今現在もこの国のかたちを規定している、どうもそのように考えているようでもある。

武士階級は鎌倉時代の初期に地侍という形で成立し、源氏や北条の武士政権を底辺で支えるとともに、自身が階級を形成してこの国を運営してきた。日本の歴史では、西洋のような強力な中央政権がなかなか成立せず、地方に分立・割拠する武士たちがそれぞれ小さな政権を作って日本の統治を分担しあってきた。徳川時代においてさえ、地方分権は崩れなかったが、そうした地方権力を担っていたのは、それぞれの地方に根付いていた地侍層だった。この層が独特のエートスを形成し、それが日本人の行動様式を強く規定していた。だから日本の中世以降の歴史は、武士によって一貫して担われてきた、というのが司馬の日本史観の特徴である。

日本の歴史においても、この地侍層を解体して強力な中央集権体制を作ろうとする試みが、信長と秀吉によってなされたが、結局それは成功せず、徳川時代には地方分権的な体制が徹底され、それぞれの地方が独自の文化を咲かせた。それゆえ徳川時代は多様な時代だったというのが司馬の理解であり、そうした多様性があったからこそ、日本はスムーズに近代化できたのだと司馬は考えているようである。

日本の歴史は表面的には、戦乱があったり、それにともなう権力の移動があったりして、結構ジグザグに進んだという印象を与えるが、底辺では意外と安定していたのではないか。その安定を支えていたのが地侍層であり、彼らは変化する中でも変らない文化の核のような役割を果たしていた。日本の文化は、中世以降は基本的に地侍層のエートスを反映したものだというのが司馬の理解といってよい。

隣の朝鮮半島や中国では、日本の武士にあたるような武装勢力が支配階級を形成することはなく、基本的には文民的な貴族階級が支配してきた。文民的な貴族が国の支配者となり、それが中央集権的な統治にあたってきたわけだ。そうした国が西洋の植民地となり、日本はならなかった。その最大の要因は、日本では武士階級が支配してきたことにある、どうもそう言いたいようにも見える。

こういうわけだから、司馬の歴史観は、いつも武士を中心に展開する。政治・経済・文化のあらゆる層において、武士の視点から歴史が語られる。司馬は、室町時代に日本の生産力が最大になったというが、それを支えたのも地侍層による墾田である。そこからは民衆の姿は見えてこない。実際には民衆の動きこそが、日本の経済変動をもたらしたのだと思うのだが、司馬はそうした民衆の動きも、武士階級の動きに付随する二次的な要素くらいにしか思っていない。

司馬は歴史家ではなく、作家だから、自分なりの歴史観を抱くのはある程度許されるだろう。それにしても、中世以降の日本の歴史を、武士の視点にたって一元的に説明しようと言うのは、かなりバイアスのかかったやり方に見える。




  
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