日本語と日本文化


松浦武四郎と異郷のなかの異郷:山口昌男「敗者の精神」


山口昌男氏は「敗者の精神」の末尾を飾る人物として、松浦武四郎を選んでいる。幕末から維新にかけて、日本国中をくまなく歩き、それを財産として各地の民俗を研究し、晩年には各地から集めた民芸品の膨大なコレクションを楽しんでいた人物である。一般にはあまり知られることのない人物だが、山口氏ら文化人類学者の世界では一応は知られているという。日本の民俗学あるいは文化人類学の草分けといった位置づけになるらしい。

武四郎は文政元年(1818)伊勢に生まれ、少年期から青年期にかけては、日本各地を旅したり、九州の禅寺の僧になったりした。そして安政二年(1855)幕府の命を受け北海道に渡り、アイヌの民族についての研究をしたが、安政六年に幕府の役職を退いた。役人のアイヌ人に対する仕打ちに憤りを覚えたのが理由だという。

武四郎は明治元年に、今度は新政府から函館府判事の役職を与えられたが、これも明治三年にはやめている。薩長中心の新政府の統治機構になじめなかったことが理由だという。

その後の武四郎は、公の役職に就くことは一度もなく、在野の研究者として一生を終えた。

武四郎晩年の大事業は、日本全国の神社仏閣や歴史的建造物から価値のある古材を集め、それを施設に展示することだった。いわば民間の博物館といったものを作ることだった。彼はその私設博物館を自宅に付属させる形で作り、それを一畳敷と名付けた。明治二十年、この一畳敷の完成に合わせて、「木片勧進」と題するパンフレットを出したが、それに序文を寄せたのは、依田学海の墨水別墅に最も頻繁に訪れていたという杉浦梅譚であった。武四郎がどんな伝手で梅譚と知り合ったか、興味深いところだと山口氏は書いている。

ところで、この一畳敷を収めた泰山荘という建物が、様々な巡り合わせを経て、戦後国際基督教大学(ICU)の構内に保存されるようになった。1960年代にICUの教員を勤めていた氏はそのことを知らないわけではなかったが、深く詮索することはしなかった。

ところが、当時の同僚でコロンビア大学の日本近代史教授をしているヘンリー・スミス氏が、1994年に氏を訪ねて来て、「泰山荘~松浦武四郎の一畳敷の世界」という著作を氏に示して批評を乞うた。それを読んだ氏は、松浦武四郎という先学の生きざまを改めて知り、彼の生き方の中に、この本のテーマである「敗者の精神」が濃縮されて息づいていることを感じとったということらしいのである。

スミス氏は、松浦武四郎をユニークな収集家として描いているらしいが(というのは、筆者は当該のスミス氏の著作を読んでいないので)、収集家であるという共通点から、シカゴ大学人類学科の創設者で日本文化愛好家でもあったフレデリック・スターにも言及している。

スターは徹底した日本かぶれで、日本滞在中は、和装をして畳の上で暮らすほどだったが、その姿はまったく外国人であることを感じさせなかったという。収集癖から、日本中の寺社から絵馬やお守りを取り寄せたというが、その延長線上で、日本の収集家たちと強いネットワークを築き上げた。

スミス氏はそんなスターについて、次のように書いている。

「スター自身も、ありとあらゆる物を集めるかなりの収集家であったが、人類学者としての彼は日本人の収集癖に、そしてその風習が解き明かす日本の文化に興味をそそられたのである。例えば、収集が社交の一端として、小さな内輪の集まりで楽しまれていたという事実である。これほど多くの収集家がいる国はないだろう、また、これほど収集家が厚遇されるところはない、と書き残している」

スターは、そうした収集家のはしりとして、武四郎をとらえていたようだと山口氏はいう。しかし、武四郎を単に日本の収集文化を体現するシンボルのような人物と見るだけでは、彼をほんとうに理解したことにはならない、と氏は付け加える。「収集家は江戸の民間の学問のスタイルを継承しているとともに、薩長の藩閥政策の中央集権、立身出世コースから降りている集まりと言う意味で、明治・大正期に大きな意味を持っていたということである」

また氏はこうもいう。「ここで強調しておかねばならないのは、スターと言う人物が紛れ込んだのは、日本という、彼にとって異郷の中の異郷であったということである。スターは、その二重の異郷の中で知的に彼を熱狂に導く住人たちと出会った。その住人たちは基本的には、縦より横の繋がりを大切にする人たちであった」

ここまで来ると、松浦武四郎と言う人物が、一方では徳川時代に根を持った日本の民間学問の伝統を受け継いでいるとともに、他方では、薩長の藩閥政策が象徴する歪んだ近代化路線への、微弱だが広範囲にわたる抵抗を表していたと、とりあえずの結論を出すことができるようである。氏は一篇の末尾を、次の文章で括るのである。

「本書で説いて来たのは、日本近代の公的な世界の建設の傍らに、公的世界のヒエラルヒーを避けて、自発的な繋がりで、別の日本、もう一つの日本、見えない日本をつくりあげてきた人がいたということである。その人たちは公的日本の側からは見えない人たちであったために勲功の対象となることはほとんどなかった。書かれたものも散発的で、よほどの積み重ね作業を行わないと全体の眺望を得られない人々の繋がりである。二十一世紀に日本が生き残るために見習わなければならないのは、これら敗者の視点で日本近代を見つめて生きた人々であることが明らかになる」




  
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