日本語と日本文化


明治出版会の光と闇:山口昌男「敗者の精神史」


山口昌男著「敗者の精神史」第七章は、「明治出版会の光と闇」と題して、明治から大正にかけて日本の出版文化をリードした博文館を取り上げている。何故博文館かといえば、博文館の創業者大橋佐平が長岡藩の出身者、つまり敗け組だったからという単純な理屈によるらしい。

だが大橋佐平は商人の出身だったから、同じ負け組でも、武士のように、それこそ負け犬にありがちな屈折した情念は持たなかった。彼は、薩長藩閥政府の近代化路線とは異なった筋道で、日本の近代化を推進した。そこに勝者とはちがった精神が働いていたことを伺える、氏はそう評価するのである。

「たしかに、薩長が官界の枢要なポストを独占したのと対比するとき、博文館が藩閥と関係なく人材を登用して、結果においては、有用な人物を数多く社会に提供したことは、今日の視点で言えばほとんど「文化産業」そのものの働きを、博文館が行っていたと言える」

この博文館とのかかわりで氏がもっとも注目しているのは巌谷小波である。小波は尾崎紅葉など硯友社の同人で、紅葉の小説金色夜叉のモデルにもなった。それには、興味深いいきさつが絡んでいる、と氏は言う。

小波はあるとき、尾崎紅葉らとともに芝の料亭紅葉館にでかけた。紅葉館とは明治14年に新築した豪華な料亭で、格式が高く、団十郎や菊五郎でさえ入会を断られたという。紅葉ら硯友社のメンバーは、紅葉館の出資者の一人子安峻の紹介で入会できたのである。

さて、紅葉館には、須磨という、目鼻立ちのととのった、利口そうな少女が働いていた。最初見たときには、小波の趣味ではないと思われたが、そのうち深い仲になった。ところがそこに、横恋慕する者が現れた。大橋佐平の息子で、博文館の経営を受け継いだ大橋新太郎である。新太郎は、小波に用事を言いつけて京都に出張させ、小波が不在の間に須磨を口説いて自分のものにしてしまった。それを知った紅葉は、激怒して須磨を廊下に連れ出し、足蹴にしたというのだ。

お人よしの小波は、二人の友人から体よく食い物にされてしまった、と氏は同情している。「つまり新太郎には愛人を奪われ、紅葉には己の足蹴にした行為をモデルにして、後に金色夜叉を書かれ大儲けされるという損な役を振られてしまったのである」

その小波は、儲けることとは縁がなかった。またそのお人よしぶりから、大橋新太郎によって重ねてひどい目にあわされている。

小波は児童文学者として次第に名を高めたが、若い頃に書いた作品は、博文館によってお蔵入り扱いされていた。そこで小波は、それらの作品を博文館に黙ってアルス社の「児童文庫」に転載したところが、それを聞きつけた新太郎が、出版権の侵害であるとアルスにねじ込んできた。結局力の弱いアルスは大出版社たる博文館に屈服し、新太郎の損害賠償に応じた。その賠償金は、小波が受け取るべき印税を以て支弁されたのである。この金をあてにしていた小波にとっては、骨身にこたえたという。

お人よしの小波も、この件はさすがに腹がたったようで、新太郎の私生活を暴露して、恥をかかせてやろうと思い、「金色夜叉の真相」なる本を著した。しかしそのときも新太郎に察知されて、逆襲を食らい、初版千部をすべて破棄の上絶版というはめに陥った。

ところで、金色夜叉の舞台となった紅葉館については、氏は、明治22年12月6日にここで催された「読売新聞」創刊15周年の集いについてふれている。この集いには、依田学海、高田早苗、森田思軒、幸田露伴、淡島寒月、幸堂得知、高橋太華といった人々が招かれた。

その折の様子を、学海が日記の中に記しているといって、氏はその部分を引用している。

「六日。晴。薄暮より日就社の招に応じ、芝公園の紅葉館にゆく・・・夕六時の頃に至りて、社幹高田早苗及びその余の人々来会す。客は森田文蔵、幸田成之、淡島寒月、幸堂得知、その他巌谷漣山人、石橋某、広津某、尽く小説を以て名を得し人なり」

ここで日就社といっているのは、読売新聞の発行元のことである。

博文館は、全盛期には本の百貨店といってよいほど、あらゆる分野の本を出版していた。今でいえば、岩波の学術路線と、講談社の大衆路線をあわせ含んだような総合出版業者だったわけである。それが衰退したのは、大橋新太郎の後を継いだ息子の進一が、出版についての意欲も能力も持たなかったことの結果だ、と氏はきびしく叱り、博文館の衰退について語った谷崎精二の次の文章を紹介している。

「日本の古典を集大成した<帝国文庫>その他、随分良い本が博文館から出版されている。明治の出版界に君臨した、あれだけ盛んだった出版社が滅びたことはまことに残念である」




  
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