日本語と日本文化


吉野作造と民本主義


大正デモクラシーの指導理念となったのが民本主義であり、その提唱者である吉野作造が良きにつけ悪しきにつけ、一時期の日本の思想界を代表したということは、大方の歴史的了解事項となっている。民本主義はその名の如く、民主主義であろうとして民主主義に徹しきれない面があることから、中途半端な政治思想であるとして、その歴史的な制約が批判される一方、当時の日本にあって、国民の政治参加をそれなりに追及したものとして、一定の評価を与える議論もある。

民本主義という言葉を使ったのは吉野作造が最初ではなかった。新聞記者で雑誌「第三帝国」を主宰した茅原崋山が使いだし、それに追随して幾人かの論客が大正前期の論壇で使うようになったらしい。しかしその言葉の内実は論者ごとにバラバラで、統一したイメージを伴ってはいなかったという。(成田龍一「大正デモクラシー」)

吉野作造はこの言葉をデモクラシーの訳語として用いた。デモクラシーの訳語としては、既に民主主義と言う言葉があったにも拘わらず、吉野がこの言葉をあえて用いたのにはそれなりの背景があった。

西洋から導入されたデモクラシーという概念には、主権の所在を巡る了解がある。デモクラシーとは、政治上の主権が人民に存在する政体を指している。それに対して日本の現行の政体は、天皇が主権を持つ君主制国家である。したがって厳密な意味でのデモクラシーとはいえない。しかしデモクラシーとはいえない君主制政体であっても、人民の権利が最大限保証されるような政治体系は不可能ではないし、是非実現されるべきである。そうすることによって、日本の君主制が専制政治に陥らず、立憲君主制として国民の強い支持を獲得できる。

吉野はこう考えて、あえて民主主義の用語を避けて民本主義と言う言葉を使い、立憲君主制を前提にしつつ、その体制のなかでの政治の目的を「一般人民の利益」に置き、「人民の為」の政治、「人民の意向」による政治を目指したわけである。

こういうわけであるから、吉野の主張が民主主義者からは不徹底と批判され、国家主義者からは国権を軽視する者だとして攻撃されたのも無理はない。よって立つ立場が中途半端な故に、左右両側から挟撃されたのである。

かように吉野の立場は中途半端なものではあったが、そのいうところは大いに影響を及ぼした。吉野は、自分たちの利害を国民一般の利害に優先させる藩閥政府を厳しく非難し、その利害の担い手たる枢密院や貴族院を排撃し、国民の意思を無視した超然内閣とそれをお膳立てする元老たちの闇の力に挑戦したのであったが、その挑戦には多くの国民が共感したのである。

吉野は何故、一気に民主主義へと向かわずに民本主義にとどまったのか。そこには色々と複雑な事情があったようだが、もっとも重要なこととして、吉野が日露戦争後に一気に高まった強烈なナショナリズムと無縁でなかったことがあげられる。

日露戦争の勝利を経て、日本人のナショナリズムが一つのピークを迎えたことは、よく指摘されることである。それは、国内的には、厳しい戦争に協力して兵力を差し出した民衆=国民による権利拡張の主張につながり、対外的には、帝国主義的な膨張政策へのエンジンとして働いた。当時の日本人にとっては、立憲論と国権論、民権の伸長と帝国主義とは両立する概念の組み合わせなのであり、それらを組み合わせて国家の隆盛をもたらすことこそ、最も肝要なことであると意識されていた。吉野の民本主義はそうした国民の意識を反映したものであったといえるのである。

こんなわけで、初期の吉野の言説には、対外政策をめぐって好戦的な色彩のものが多く含まれている。たとえば、清国に対する21か条要求について、「だいたいにおいて最小限度の要求」とし、「日本の生存のためには必要欠くべからざるもの」と言い放った。そして日本政府が、その要求の一部を引っ込めたときには、「甚だこれを遺憾とする」といった。その要求とは、中国政府の政治・軍事・外交の顧問に日本人を採用することとか、地方警察を日中共同とするとか、揚子江地域に鉄道敷設権を要求するとか、あからさまな内政干渉または侵略の意図を感じさせるものであった。

かように吉野の主張には、国権主義の色彩が強く含まれていた。そのことで吉野は、左翼からの厳しい批判を浴びる一方、右翼からは評価されることもあった。たとえば吉野は、頭山満らの浪人会と立会演説会を催したことがあったが、その席上互いに意気投合し、最後にはともに万歳三唱して散会したという。このことなどは、吉野の主張に、頭山のような右翼の巨頭でさえ理解を示していたことの証拠と言える。

植民地に対する吉野の視線も、最初の頃は帝国主義を当然視する立場に立っていた。遅れた朝鮮や台湾に対して、進んだ日本が兄貴分として、いろいろと面倒を見ることによって、その発展を助けてやるのだという、いわゆる善政論の立場をとっていたわけである。吉野といえども、国権論の呪縛がいかに強烈だったかということを、物語る事例と言えよう。

しかし吉野はそのうちに、日本による植民地への圧政に対して批判的なことをいうようになる。朝鮮で起きた3・1運動に一定の同情を寄せ、朝鮮人は日本人による支配を喜んでいない、と喝破した。中国の5・4運動にも同情し、民族自決の原則に賛成した。21か条の要求の際に放った言葉から、吉野は大きく遠ざかっていたわけである。

しかし、民本主義も、それを提唱した吉野作造も、やがて日本が軍国主義に向かって驀進する過程の中で、現実的にも学問的にも影響力を失っていった。そして、戦争が終わって、外からの風が日本に民主主義への動きをもたらした時にも、吉野の説が強い影響を持つことはなかった。歴史上の小さな一齣として片づけられ、人々の記憶に大きく残ることはなかったのである。




  
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