日本語と日本文化


ある明治人の記録:会津人柴五郎の遺書


明治維新の際に、会津藩が幕府側の中心となったことを咎められ、朝敵の汚名を着せられて官軍の攻撃を受け、降伏後は下北半島に追放されて、塗炭の苦しみを味わったということは、色々な機会に聞いたことがあった。ところがその苦難を、一身を以て体験したという歴史の生き証人の記録を、偶然読む機会をもった。その記録とは「ある明治人の記録:会津人柴五郎の遺書」(中公新書版)というものである。

著述者の柴五郎は、日本陸軍創生期の軍人であり、後に陸軍大将にまでなった人物だが、会津藩士の子として生まれ、わずか10歳の時に、戊辰戦争の一環として行われた会津戦争に巻き込まれ、そこで子どもながらに悲惨な戦争の経験を味わったあと、東京での俘虜生活や下北半島での流罪のような境遇を生き延びた。

この数年間のつらい体験を、五郎少年は生涯忘れることができず、自分の記憶のなかで生き生きとよみがえってくる日々の出来事を、備忘録のかたちに現していた。そして昭和17年ごろ、80歳を超えて、日本の敗色が濃厚になるのを見届けると、この本の編著者である石光真人氏に、其の備忘録を託した。石光氏はそれに手を加えて一冊の書にまとめ、昭和46年に中央公論社から出版したという次第である。筆者の手元にある本の奥付を見ると、2009年5月15日47版とあるから、出版後息長く読み継がれてきたということが伺える。

柴少年にとっての辛い体験は、わけもわからないまま突然やってきた。「幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かるると教えられしに、いかなることのありしか、子ども心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を蒙りたること、脳裏に刻まれてきえず」

会津には薩摩藩が先頭になって攻め込んできた。戦闘は約一か月に及んだ。その修羅場に少年も巻き込まれた。一番つらかったことは、祖母、母、姉、兄嫁、妹の五人が、足手まといになることを恐れて自決したことだ。

少年は、母たちの計らいによって、親戚に預けられる。その別れの場の事が常に思い出されて少年の心を苛む。

「ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと篭城を拒み、敵侵入ととともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり」

こんな文章を読むと、筆者などは頭を抱え込んでしまう。いくら維新の内乱とはいえ、日本人同士の争いではなかったのか。男たちが殺し合うのはともかくとして、何故女までがこういう境遇に自らを追い込まねばすまない事情があったのかと。

だが女の中には男とともに篭城して、かいがいしく働いていたものもある。大山捨松などもそうだ。

「城中にて婦女子の活躍ぶり、まことに目覚ましきことにて、敵砲丸城中に落下すれば、水浸したる蓆、俵の類を広げて走り、この上に覆いて消し、その被害戦死に及ぶを防ぐ。また負傷者の手当、炊出しなどやすむ暇なく、衣服よごれ破れるも顧みず、血まみれになりて奮闘せる由なり。最後の時至れば白無垢のいでたちに身を清め、薙刀小脇に抱きていっせいに敵陣へ切り込みて果てる覚悟なりしという」

こんなかいがいしい働きもむなしく、会津藩は一か月にわたる抵抗の後降伏した。少年は親戚の山荘で、髷を切り小僧の姿に扮して隠れていたが、やがて兄たちや父親と再会する。女たちは自決して果てたが、男たちは生き延びたわけである。しかし生き延びた者たちに待っていたのは過酷な運命だった。

翌年明治2年の6月、会津藩士は捕虜として東京に移送され、5か所の収容所にわけて入れられた。新政府は、北海道開拓のために、藩士にして希望する者には移住を勧奨したが、応じた者は200戸だった。大部分のものは、藩主と運命を共にすることを選んだ。

そんな彼らに、新政府から思いがけない沙汰が出された。陸奥の国、旧南部藩の一部を裂き、下北半島の火山灰地に移住させ、3万石を賜うというのである。3万石と云っても名目だけで、実際には7000石程度のものでしかなかった。旧領の会津が実質67万石あったのに比すれば、雲泥の差である。それでも、亡国を覚悟していたものとしては、こんな申し出でも、再生に向けての天子の特別の配慮に思えたという。

しかし、それは甘い考えだったことが、すぐに身にしみてわかる。明治3年5月に、藩士たちは新領地に移住し、そこを斗南藩と命名したが、地味低く藩士を養うにはとうてい足らず、彼等はすぐに飢えに直面するのである。

柴父子は、恐山の麓に小屋を借りて、そこを根城に開墾に乗りだしたが、そうかんたんにはいかない。悲惨な生活が待ち受けていた。

「霊媒にて有名なる恐山の裾野は起伏し、松林、雑木林入り交じり、低地に数畝の田あるのみ。まことに荒涼たある北辺の地にて、猟夫、樵夫さえ来ることまれなり。犬の声全く聴くことなく、聞こゆるは狐の声、小鳥の声のほか、松林を吹き渡る風の声、藪を乱す雨の音のみなり」

栄養失調で苦しんでいるところを、猟師が誤って撃ち殺した飼い犬の肉を、飼い主の承諾を得てもらうことができた。その話を聞きつけた別の藩士がやってきて、半分わけてくれという。父親が承諾すると、其の藩士は犬を解体し、半分を持ち去った。

その日から、少年は毎日のように犬の肉を食わされた。犬の肉はまずくて喉を通らなかった。すると父親は、次のように言って、少年を諭すのだ。

「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを食らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地に来れるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、後の世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」

父の怒りに怯えた少年は、目をつむって一気に飲み下したが、胸につかえて苦しいこと限りない。こんな境遇を想うにつれ、少年は、これは藩の再興などではなく、「まことに流罪にほかならず、挙藩流罪という史上にかつてなき極刑にあらざるか」と結論付けるのだった。

少年個人の運命という点では、青森県庁の給仕として出資できたことが分かれ目となった。そこで少年は大参事の野田豁通と出会うのだが、この人物がゆくゆく少年の運命をひらいてくれる。

野田豁通について柴五郎は次のように言っている。「野田豁通の恩愛いくたび語りても尽くすこと能わず。熊本細川藩の出身なれば横井小楠の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞がる。しかるに後進の少年を見るに一視同仁、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石を育つるに心魂をかたむけ、しかも導くに諫言を以てせず、常に温顔をほころばすのになり」

野田豁通は何らの縁もなき柴五郎少年を暖かく扱ってくれたのみか、少年に陸軍幼年学校に入るきっかけまで作ってくれた。この人の恩愛がなかったならば、自分は一回の乞食として終わっていたかもしれない、そんな思いが切々と伝わってくる。

少年が深い恩を受けた人物がもう一人いる。山川大蔵だ。山川は会津藩の家老で、斗南藩の大参事を務めたりしたが、一時零落して東京に蟄居していた。青森から出てきた少年は、いろいろな人に保護を仰いだあげく、山川のところに転がり込んだ。山川の家には、家族のほかに食客のようなものもいたが、そうした中で生活が苦しいにもかかわらず、少年の面倒を見てくれた。山川大蔵はまた、後に大山巌夫人となった捨松の長兄である。少年が訪ねて行ったとき、捨松はアメリカに留学中だった。

少年の身なりがあまりにもひどく、乞食のようだったので、山川は捨松の衣装を取り出させ、袖を切ってそれを少年に着せた。少女の着物を着せられても、少年は恥ずかしいとも思わなかった。

陸軍幼年学校に入った少年は、それまできちんとした教育を受けておらず、授業についていけるか不安だったが、面白いことに、学校の授業はフランス人教師によって、フランス語でなされた。少年は日本語の教育を受けたことがないので、高度の日本語の文を作ることはできないが、フランス語はゼロからの出発だったこともあって、すぐに読んだり書いたりすることができるようになった。こうして、無事学業を勧め、軍人としての未来を自らの手で切り開いていく。

柴五郎と五郎の兄たちそして会津藩士の多くにとって、会津雪辱の日ともいうべき時がやってきた。明治10年の西南戦争だ。西郷が率いる薩摩軍に、天皇から討伐命令が出されたのだ。その時のことを柴五郎は次のように書いている。

「余の日記に次のごとくしるしたるを見る。真偽いまだたしかならざれども、芋征伐仰せだされたりと聞く、めでたし、めでたし」

薩摩は自分たちに塗炭の苦しみを与えた仇敵であり、西郷はその総大将だ。その西郷が今では賊軍の将となり、官軍によって成敗されようとしている。これは会津にとってはまことにめでたいことだ、そんな感慨が読み取れる。

感慨はなおも続く。「はからずも兄弟四名、薩摩打ち懲らしてくれんと東京に集まる。まことに欣快これにすぐるものなし。山川大蔵、改名して山川浩もまた陸軍中佐として熊本県八代に上陸し、薩摩の退路を断ち、敗残の薩軍を日向路に追い込めたり。かくて同郷、同藩、苦境をともにせるもの相集まりて雪辱の戦いに赴く、まことに快挙なり。千万言を費やすとも、この喜びを語りつくすこと能わず」

柴五郎は、大久保利光が暗殺された時にも全く同情を覚えなかった。大久保も西郷と同罪なのだ。この両人は「天下の耳目を日飾ひかざれば大事ならずとして、会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず。結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」

10歳の時に一心に蒙った傷が、いつまでも癒されることなく、少年の生涯を苦しめ続けた、その苦しみがこの言葉から逆説的に伝わってくる。


    

  
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