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十地経を読むその六:第五本当に勝利しがたい菩薩の地


菩薩の十地の第五は「本当に勝利しがたい菩薩の地」である。この地にある菩薩は、四諦の真理をさとる。四諦とは四つの聖なる真理のことであり、釈迦牟尼が初転法輪で説いた真理である。それは次のように言い表される。「ああ、あらゆるものは苦悩に満ちている! これが、仏の教えられた聖なる真理(苦聖諦)である、とあるがままに如実にさとる。ああ、あらゆる苦悩は生成する(苦集)! ああ、あらゆる苦悩は寂滅している(苦滅)! ああ、あらゆる苦悩の寂滅に導く道がある(苦滅道)! これが、仏の教えられた聖なる真理である」

この聖なる真理を、ここでは四諦とは言っていないが、内実は同じものである。四諦は苦集滅道ともいわれ、次のように要約される。すなわち、この世の一切は苦であること、苦の源泉は煩悩であること、その苦の源泉を滅することがさとりの道につながること、そのさとりへの道はさまざまな修行からなること、である。これは、仏が初転法輪の中で説いた、もっとも根本的な真理であるから、それを体得することは、仏と同じ境地に立ったということを意味する。もっともこの部分では、菩薩はまだ仏の境地とは離れたところにおり、四諦を完全に体得したこととはなっていない。

苦の源泉は煩悩であるが、その煩悩をここではまよいと言っている。そしてその煩悩には、無知蒙昧と欲望の二種があるという。この二種の煩悩を断ち切らない限り、まよいに満ちた存在が終わることはない。「無知蒙昧と欲望の二種の煩悩があるならば、それと同時にはたらいて、まよいの存在が繰り返し生成する。現世・未来世・過去世の三世にわたって。このような苦悩する存在が断ち切られることはついにあるまい」

また、次のようにも説かれる。「彼らにあって無量無数の身体が、これまでも滅してきたし、いまも滅しつつあるし、これからも滅するであろう。このようにいつまでもたえまなく滅しつつあるにもかかわらず、わが身を厭い捨てる心をおこさない。それどころか、いよいよますます、苦悩のメカニズムを増大させる」

つまり、煩悩にとらわれている限り、永遠に輪廻から脱却することはできない、というのである。輪廻から脱却して涅槃の境地に達するには、自我を含めたあらゆる存在への執着を断ち切ることが必要なのである。

四諦の真理は、自己自身が体得するのみならず、衆生にも体得させねばならない。それが菩薩としての基本的な義務である。菩薩とは、阿羅漢とは異なり、自分自身のさとりに満足するのではなく、衆生にもさとりを得させることをめざすものである。それが大乗という言葉の意味である。

第五の地にある菩薩が「本当に勝利しがたい菩薩」と呼ばれるのは、「煩悩の敵をかみくだいて」ゆき、「いかなる敵が攻めてこようとも、敗北することがない」からである。何者も敗北させることができぬ、それを「本当に勝利しがたい」と言っているわけである。

この境地にある菩薩は、兜率天王となる。兜率天は、釈迦の次の仏たる弥勒菩薩が説教をしているところである。兜率天王としての菩薩は、「自由自在にはたらきをなして、衆生が、あらゆる外道の哲学を拒否するようにする。そして、衆生をして仏教の真理を理解させる妙をきわめる」。その際に菩薩は次のように思惟する。「私は、いったいどうすれば、第一のものであろうか、もっともうるわしいものであろうか、もっとも力強いものであろうか、すぐれたものであろうか、とくにすぐれたものであろうか、最上なるものであろうか、この上なきものであろうか、みちびくものであろうか、正しくみちびくものであろうか、あまねくみちびくものであろうか、乃至すべてを知る知者の知に帰命するものであろか」と。

以上「本当に勝利しがたい菩薩の地」は、仏教の根本真理たる四諦の教を説く。第四地までの菩薩が、人間的な限界たる垢れを除去して、清浄な境地をめざしていたのに対して、第五地にいたってはじめて、仏の候補生としての菩薩本来の智慧を身に着けるさまが説かれるのである。


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