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華厳経十地品(十地経)を読む


十地経はもと独立した経典だったが、のちに華厳経に統合されて「華厳経十地品」となった。十地経と華厳経本体のどちらが古いかについては、定説はないようだ。上山春平は十地経が華厳経のもっとも古層に属していると言っている(角川書店刊「仏教の思想シリーズ⑥無限の世界観<華厳>)。それに対して、華厳経本体のほうを古いものと見、十地経はそれにあとから付け加わったとみる見方もある。その見方は、華厳経の特徴である十種の分類法がまず成立し、その分類法を菩薩の位に適用するという考えが生じて、その考えに基づいて十地経が編纂されたのではないかと推測する。

華厳経は、全体として、主要な大乗仏典のなかで最後に成立したと考えられ、それ以前の大乗経典の基本的な内容を総合する形で含んでいる。般若経の空の思想とか、法華経の一乗の思想とか、勝鬘経の如来蔵の思想などがすべて盛り込まれている。それに加えて華厳経独自の思想が認められる。それは三界唯心とか四種法界・円融無碍とか呼ばれるものだが、その華厳経独自の思想を、この十地経が取り込んでいるのである。もっとも三界唯心という言葉はこの経の中で出てくるが、四種法界という言葉はストレートな形では出てこない。華厳宗の唱道者たちが宗教哲学上の概念として持ち出したものである。とはいえ、思想的な内実はすでにこの経の中に認められる。

十地とは、菩薩の十の地をさす。地とは位(くらい)という意味である。菩薩道を発願してから如来の境地に達するまでの間に、十の段階がある。その段階を一つ一つ踏んでいくことで、次第にさとりにふさわしい境地に達し、ついには如来となって輪廻を超脱する。その一つ一つの段階を順を追って説いていくというのが、このお経「十地経」の構成である。

この十の段階は、大きく二つに分かれる。第一から第七までの前半部分と、第八以降の後半部分である。前半部分では煩悩を完全には脱却していない。まだ人間としての煩悩をひきずっている。第八以降になると、煩悩を完全に断ち切って、さとりの境地に入っている。だがまだ如来とは言えない。このお経はあくまで如来となることをめざす菩薩の修行について説いたものである。その修行のうちでもっとも重要なことは、自分一人が悟りの境地に安住することではなく、すべての衆生をして悟りの境地へと導くことである。だから如来を目指すものは、生きている限り菩薩として衆生を導くために奮励努力しなければならないのである。このお経は、そのような使命を負った菩薩のあり方について、とりあえずエッセンスの部分だけを説いたものとされる。菩薩のあり方をありのままにすべて述べることなどとてもできない。そんなことは、無限の時間を費やしてもできることではない。しかしこのお経がとりあえず説いていることを聴聞すれば、完全なさとりを得て如来となる道が開けるであろう、とお経は説くのである。

そこで菩薩の十地のそれぞれの名称をあげると次のとおりである。
 第一 歓喜にあふれる菩薩の地
 第二 汚れをはなれた菩薩の地
 第三 光明であかるい菩薩の地 
 第四 光明に輝く菩薩の地
 第五 ほんとうに勝利しがたい菩薩の地
 第六 真理の地が現前する菩薩の地
 第七 はるか遠くにいたる菩薩の地
 第八 まったく不動なる菩薩の地
 第九 いつどこにおいても正しい智慧のある菩薩の地
 第十 かぎりない法の雲のような菩薩の地
このうち第七から第八の間に飛躍があることは上述のとおりである。その飛躍を準備するものとして、第六地において真理が語られる。その真理とは三界唯心という言葉で表される。その世界は、我々が生きている現実の世界はもとより、非現実な世界を含め、あらゆるものが心の産物だとする思想である。心と言っても、現実の人間の心ととらえてはならない。宇宙の究極的原理のようなものを指している。仏教ではそれを法身というが、西洋哲学ではカントにならって超越論的な心というところだろう。

菩薩の第十地にいたって、菩薩は如来になるにふさわしい力を獲得し、いつでも如来になる準備ができた状態へと高まる。この段階に達した菩薩は、涅槃即成仏という資格を得ているのである。

このようにお経は、菩薩の十地について段階を踏んで説いた後で、このお経を永遠に説き続けるべく後世のものへと委嘱する。それは法華経が、釈迦入滅後も永遠に説かれるべく後世の人に委嘱されたのと同じ趣旨である。

十地の各論に先立つ序章において、このお経が説かれるにいたった経緯とか、お経を語る主体、お経の趣旨などについて簡単に触れられる。まずお経の説かれた場所は、他化自在天。天上の神々が自由自在に遊戯するところとされる。大乗のお経の大部分は、現世の地上で説かれるのであるが、このお経は一貫して神々が遊戯する天上で説かれたということになっている。そこの宮殿に廬舎那仏がお出ましになり、おびただしい数の菩薩たちが集まってきていた。廬舎那仏とは、釈迦牟尼の別名である。集まった菩薩は、金剛蔵菩薩をリーダーとして、宝蔵大菩薩ほか数えきれないほど多くの菩薩たちである。

金剛蔵菩薩が「限りない知の光明に輝く」と名付けられる三昧に入定するや、おびただしい数の如来が出現して、自分たちはみな金剛像如来であると名乗ったうえで、金剛蔵菩薩に対して、菩薩の十の地について説くように促す。金剛蔵菩薩は最初ためらったのだが、その理由は、語りかける相手に相応の資格があるとは思えなかったからだ、だが他の菩薩を代表して解脱月菩薩が是非説いてくださいと懇願すると、釈迦牟尼仏の眉間の白毫から光明が輝き出で、また諸仏の眉間からも光明が輝き出でて、金剛蔵菩薩を励ますので、金剛蔵菩薩はついに、菩薩の十地について、段階を踏んで説いていく気になるのである。

菩薩の地とはどのようなものか、まず総論的な言及がある。それは「その本性において空であって、いかなる実体もない。静寂であり、不二であり、無尽である。まよいの存在より解脱して、自由になっている。輪廻も涅槃も平等であるままに、涅槃をさとっている。どこが前半で、どこが後半で、どこが中間ということもない。言葉ではいかんともいえない。過去・未来・現在の三世にかかわりがない。空間にも等しい。静寂であって、とわに静寂。めでたい如来のみぞ、さとりたまう。いかなる言語の妙をつくしても、言葉で言うことはまったくむつかしい。そのようであるのが、菩薩の地である」

そのように述べたあとで、金剛蔵菩薩は次のように決意を語る。「私は仏の不思議力をうけて、説くことにしよう。すばらしい法を言うにふさわしい妙音で、比喩をもちい、すじみちの通った論理にしたがい、ぴったりと適合した字句によって述べることにしよう・・・私のうちにおいては、無量無辺なるめでたい如来の不思議力が光明となって満ち溢れている。この不思議力をうけてこそ、私は説くことができるのでありますぞ」

以下、十地のそれぞれについて金剛蔵菩薩の説いたことを聴聞することにしよう。依拠したテクストは、荒巻典俊によるサンスクリット写本からの現代日本語訳である(中央公論社刊「大乗仏典第八巻」)


十地経を読むその二:第一歓喜にあふれる菩薩の地

十地経を読むその三:第二垢れをはなれた菩薩の地


十地経を読むその四:第三光明であかるい菩薩の地

十地経を読むその五:第四光明に輝く菩薩の地

十地経を読むその六:第五本当に勝利しがたい菩薩の地

十地経を読むその七:第六真理の知が現前する菩薩の地

十地経を読むその八:第七はるか遠くにいたる菩薩の地

十地経を読むその九:第八まったく不動なる菩薩の地

十地経を読むその十:第九いつどこにいても正しい知恵のある菩薩の地

十地経を読むその十一:第十かぎりない法の雲のような菩薩の地

十地経を読むその十二:終章この経の委嘱


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