日本語と日本文化


文覚と西行:西行伝説


西行は、武士として生まれ、若くして出家したこと、出家後仏道のみでなく神道や修験道にも深くかかわったこと、東は陸奥西は九州にいたるまで日本中を歩き回ったこと、多くの恋の歌に見られるように多感なところがあったことなど、さまざまなことが作用して多くの伝説が生まれた。ここではそうした伝説のいくつかをとりあげて、西行の意外な面について見ておこう。

まず、若くして出家したした後も、西行が武士としての気持を生涯忘れなかったことを物語る話として、文覚との出会いをめぐるものがある。文覚は、神護寺の高僧として知られた人物だが、西行同様武士の出身で、奇僧として名を鳴らしたことが、平家物語などによって伝えられている。その文覚が、やはり武士の出身で、日頃から奇行で知られた西行に並々ならぬ敵愾心をもっていた。その文覚と西行との出会いを、鎌倉末期の歌人頓阿の「井蛙抄」が伝えている。

それによれば文覚は、出家の身で歌を詠み、なにかと軟弱に見える西行を憎んで、いつか出会ったら頭を打ち割ってやろうと思っていた。そこの部分は次のように書かれている。

「心源上人語りて云はく、文覚上人は西行を憎まれけり。そのゆえは、遁世の身とならば、一筋に仏道修行の外他事あるべからず、数寄を立ててここかしこにうそぶき歩く条、憎き法師なり、いづくにて見合ひたらば頭を打ちわるべきよし、常のあらましにてありけり」

そこへ西行が尋ねてきた。弟子たちは西行を文覚に会わせないようにと思ったが、西行はその裏をかいて文覚のいるところへ進んだ。それを迎えた文覚の様子が次のように書かれている。

「上人内にて手ぐすねを引いて、思ひつる事叶ひたる体にて、明り障子を開けて待ち出でけり。しばしまもりて、これへ入らせ給え、とて入れて対面して、年頃承り及び候ひて見参に入りたく候ひつるに、御尋ね悦び入り候ふよしなど、ねんごろに物語りして、非時など饗応して、次の朝又斎などすすめて帰されけり。弟子達手を握りつるに、無為に帰しぬる事悦び思ひて、上人はさしも西行に見合ひたらば、頭打ちわらんなど、御あらまし候ひしに、ことに心閑かに御物語候ひつる事、日頃の仰せには違ひて候ふ、と申しければ、あら言ふ甲斐なの法師どもや。あれは文覚に打たれんずる面やうか。文覚をこそ打たんずる者なれ、と申されけると云々」

文覚は、平家物語にも記されているとおり、非常に気性の荒い人物で、数々の武勇伝があるくらいだ。もともと遠藤盛遠という名の武士だった頃の生き方を引きずっていたのだと思うが、その文覚が西行を見て、この男はかえって自分を打ちすえるような果敢な人間だと見破ったというのである。

この話は、実際に起きたことかどうか確かではないが、西行の武士的な心意気がいつまでも消えずに残っていたことを示す逸話として、広く信じられてきた。この、西行の武士的な心意気を、「古今著聞集」の一文が「たてだてし」と表現していることを高橋英夫が指摘している。古今著聞集の中の「西行法師後徳大寺左大臣実定中将公衡等の在所を尋ぬる事」と題した記事は、西行は徳大寺のせせこましい行為を眼にして、そのせせこましさを軽蔑したと紹介した上で、西行を「世をのがれ身をすてたれども、心はなほむかしにかはらず、たてだてしかりけるなり」と評している。

この評を引用しながら、高橋は、西行のなかにいつまでも消えずに残っていた武士的な傾向について強調するのである。この「たてだてし」という言葉を高橋は、「気性が強い、圭角がある」という意味だといって、「文覚と西行の出会いは、たてだてしい男がもうひとりのたてだてしい男を発見したドラマだったということになるだろう」と書いている。

高橋の西行論は、西行の武士的な出自とメンタリティに大きく拘っているところがあり、この評価もそうしたこだわりのあらわれと言えなくもないが、多かれ少なかれ西行にそういう面があったことは否めないことである。




  
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