日本語と日本文化


伊勢への移住:西行を読む


治承四年(1180)、晩年の西行は高野山を引き払って伊勢へ移住した。動機はくわしくわかっていないが、恐らく源平争乱が本格化したことが背景にあると思われる。その年の夏には頼朝が挙兵し、戦雲が都にせまる気配を見せ始めていた。清盛と親しかったらしい西行は、別に平家に肩入れするでもなく、騒乱に巻き込まれることを恐れたのではないか。

伊勢へは出家直後にも訪れている。その折に読んだ歌と、晩年に読んだ歌とが、「山家集」や「御裳濯川歌合」に混在しているので、どれがどちらの時期のものかわからぬところが多いが、それらのうち晩年のものと思われる歌に注目したい。まず、「御裳濯川歌合」に載せ、「千載和歌集」にも取り入れられている歌、
「高野の山を住みうかれてのち、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、大神宮の御山をば神路山と申す、大日如来の御垂迹を思いひてよみ侍りけり
  深く入りて神路の山をたづぬればまた上もなき峯の松風
詞書から、高野を降りて伊勢へ移ったときのものと知れる。西行は伊勢の二見浦の山寺に草庵を結び、そこから大神宮をたずねてこの歌を詠んだようである。大神宮を拝みながら、そこに大日如来の垂迹を思い重ねているのは、西行の本地垂迹思想のあらわれだろう。西行は最初の伊勢参拝でも垂迹思想を発露していると思われるから、生涯にわたってその思想を抱いていたことがうかがわれる。

西行は僧の身にして伊勢神宮の神官たちと深く付き合った。賀茂神社が僧を忌むのと対照的に、伊勢神宮の神官たちには仏教が普及していた。その神官である荒木田満義は西行の歌の弟子となり、後には自ら出家して僧となり、蓮阿と称した。熊野同様伊勢でも、神仏習合が進んでいたのであろう。

その蓮阿が、二見浦での西行の暮らしぶりについて、「西行上人談抄」の冒頭で次のように記している。
「西行上人二見浦に草庵結びて、はまをぎ折しきたるやうにてあはれなるすまひ、みるもこころすさむさま、大精進菩薩の庵の草を座としたまひけるもかくやとおぼえき、硯は石の、わざとにはあらでもとより水入るる所のくぼみてすずりのやうなるが、筆置所などもあるををかれたり、和歌の会の文台には、或時ははながたみ、或時はあふぎがやうの物を用る、歌のこと談とても、そのひまには、一生いくばくならず、来世ちかきにありと云文、坐臥の口ずさみにいはれし、あはれにたふたくおぼえし、いまもおもかげなごりたえぬなり」

この「談抄」は、西行の次の言葉も伝えている。
「おほかた、歌は数寄のみなもとなり、心すきてよむべきなり、しかも大神宮の神主は、心清くすきて和歌をよむべきなり、御神よろこばせ給ふべし」
歌を読むことが神を喜ばすことにつながるとは、歌が法楽と捉えられているのだ、と寂聴尼は指摘している。

伊勢二見浦での暮らしは六年間も続いたが、その間の西行の動向はよくわかっていない。「山家集」には、二見浦で見かけた尼が貝合せのための貝を集めているのに感心したり、対岸の伊良子に渡る鷹に眼を向けたりする光景が彷彿される歌が載せられているほか、熊野の新宮から伊勢へ向かう途中に詠んだ歌が収められている。
「新宮より伊勢の方へまかりけるに、みき島に舟の沙汰しける浦人の、黒き髪は一筋もなかりけるを呼びよせて
  年経たる浦の海士人言問はん波を潜きて幾代過ぎにき(山1397)
この詞書から、伊勢在住の折に新宮を往来したのではなく、高野から伊勢へ移住する途中に熊野を経由したという解釈もある。その真偽ははっきりしない。




  
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