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源平争乱:西行を読む


西行が高野山を下りて伊勢へ移った治承四年(1180)は、全国的な動乱の始まりを予感させた。六月には以仁王が兵士打倒に立ち上がって宇治平等院で敗死、八月には頼朝が伊豆で挙兵、九月には義仲が木曽で挙兵、十一月には宇治川で平氏が敗退といった具合で、戦乱が一挙に広がる一方、つむじ風や飢饉が人々を襲った。世の中がひっくり返りそうな予感が、西行を含め人々の心をとらえたのである。そんな予感に駆られるように、西行は高野山を去った。奈良では東大寺を初め大寺院が平氏によって焼かれる事態も起っており、高野山も決して無事にはすまないかも知れぬ、そうした不安が西行を駆り立てた、ということもあるだろう。

その後、伊勢を立って二度目の陸奥への旅に出るまでの約六年間に、源平動乱が繰り広げられた。その様子を西行は、伊勢からひっそりと見守っていたに違いない。「聞書集」には、源平動乱の様子について詠った歌がいくつか収められている。そのうちの一つ、

「世の中に武者起こりて、西東北南、軍ならぬ所なし、打続き人の死ぬる数聞くおびただし、まこととも覚えぬほどなり、こは何事の争ひぞや、あはれなることのさまかなと覚えて
  死出の山越ゆる絶え間はあらじかしなくなる人の数続きつつ(聞225)
西行自身も武士の出であったから、もしも出家しないで武士のままでいたならば、この動乱と無縁ではいられなかったはずである。

宇治川での源平の正面衝突についても、西行は触れている
「武者の限り群れて、死出の山越ゆらん、山だちと申恐れはあらじかしと、この世ならば頼もしくもや、宇治の軍かとよ、馬筏とかやに渡りたりけりと聞えしこと、思ひ出でられて
  沈むなる死出の山川みなぎりて馬筏もやかなはざるらん(聞226)
宇治川の合戦の様子は平家物語でも一つのハイライトをなしており、古来人々の想像力を刺激してきた。西行もその話を噂に聞いて、武士としての血が沸くのを感じたかも知れぬ。この歌からは、世の無常をはかなむ様子よりも、武士の合戦ぶりに西行の感情が高まる様子を感じさせられる。

西行は、清盛とは北面の武士同士だったこともあり、源平の争乱に面しては、平氏方に同情を寄せたようである。だが木曽義仲が死んだと聞いたときには、その死に同情するかのような歌を詠んでいる。
「木曽と申武者死に侍りけりな
  木曽人は海の碇を沈めかねて死出の山にも入りにけるかな(聞227)
山で育った義仲が、海に碇を下ろすように安定した生涯を送ることが出来ず、あわただしく死出の山に旅立ったことよと、半分は皮肉、半分は同情をこめた歌に聞こえる。

源平争乱の合間に、西行が親しくしていた兵衛の局が死んだ。
「申べくもなきことなれども、軍の折の続きなればとてかく申ほどに、兵衛の局、武者の折節失せられにけり、契り給ひしことありしものをと、あはれに覚えて
  先立たば導べせよとぞ契りしに遅れて思ふ跡のあはれさ(聞229)
愛慕していた女性に先立たれた西行の悲しさがすなおに伝わってくる歌である。

平氏の敗軍の将宗盛が捕らえられて鎌倉に送られ、その後京に護送されて切られるという話を聞いたときには、西行は同情を寄せる歌を詠んだ。
「屋島内府鎌倉へ迎へられて、京へ又送られける、武者の母のことはさることにて、右衛門督のことを思ふにぞとて泣き給ひけると聞て
  夜の鶴の都のうちを出であれなこの思ひにはまどはざらまし(家集102)
屋島内府とは宗盛のこと、その宗盛が自分の死ではなく、母親や息子のことを思って泣いたというので、西行ももらい泣きをしたということなのだろう。こういう歌に接すると、西行が平氏方の人の運命により強い関心を抱いていたということが伝わってくる。


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