日本語と日本文化


熊野詣:西行を読む


西行が熊野詣をしたことは、熊野で詠んだ歌が「山家集」に収められていることから確かなことだと思うが、詳細についてはわからない。瀬戸内寂聴尼は、「西行物語」に西行の熊野詣の記事があるといって、それを紹介しているが、筆者が参照している桑原博史訳注の「西行物語」(講談社学術文庫)には、それと思われるものが見当たらない。そこで異本を当たったところ、萬野美術間所蔵の「西行物語絵巻」に熊野詣の記事がある。寂聴尼は、絵巻の類を含めた異本に依拠して、西行の熊野詣について記述しているのであろう。

寂聴尼が紹介する「西行物語」の記事によれば、西行は吉野に住んでいる時に熊野詣でを思い立ったが、吉野から直接熊野に向かわずに、「わざわざ富田川の畔に出て八上の王子に詣り、そこから中辺路をたどっている。中辺路へ入れば真直その道をたどればいいのに、西行は引き返して岩代に出て、そこで泊り、そこから田辺へ向かい、大辺路街道を海岸沿いに歩き、那智に詣っている」

この八上の王子に詣でた際に詠んだという歌が「山家集」に載っている。
「熊野へまゐりけるに、八上の皇子の花おもしろかりければ、社に書付けける
  待ち来つる八上のさくら咲きにけり荒くおろすな三栖の山風(山98)
三栖の山というのは紀州の山々をさす。その山から吹き降ろす風に、せっかく咲いたさくらの花を散らさないでほしいと呼びかけているわけである。西行にとって熊野は、まず桜とのかかわりにおいて現われたということだろう。

その後西行は、那智の滝を拝む前に百日参篭するようにと僧に進められ、自分も参篭する気になった。その折のことを西行は、「山家集」に次のように記している。
「那智にこもりて滝に入堂し侍りけるに、このうえに一二の滝おはします、それへまゐるなりと申常住の僧の侍りけるに、具してまゐりけり、花や咲きぬらんと尋ねまほしかりける折節にて、便りある心地して、分けまゐりたり、二の滝のもとへまゐり着きたりる、如意輪の滝となん申と聞きて拝みければ、まことに少しうち傾きるやうに流れ下りて、尊く覚えけり、花山院の御庵室の跡の侍りける前に、年古りたりける桜の木の侍りけるを見て、すみかとすればとよませ給ひけんこと思ひ出でられて
  木の本に住みける跡を見つる哉那智の高嶺の花を尋ねて(山852)
花山院は、在位わずか二年で一條天皇に譲位させられたのだが、それは院の異様な行状が原因だったようだ。父親の冷泉院は狂疾があったとされるが、花山院はそれに輪をかけた狂疾ぶりで、異様な行動が眼に余ったので、藤原兼家、道兼父子によって譲位させられた。西行がなぜこの院に同情したか、それはわからない。

那智の滝を拝んだ後は本院に詣で、その後新院に詣でたのだと思われる。

西行がこのように熊野詣に拘ったわけは、一つには敬慕する待賢門院が十三度も詣でたということもあり、自分もその跡を偲んで詣でてみたいという気持ちが強かったこともあろうが、当時は、法皇や上皇たちが熊野詣でをすることが年中行事のようになっていて、下々にも熊野詣の機運が高まっていたこともある。西行もその機運に乗って、熊野詣でをしたという面もあろう。

西行は、六十歳を過ぎた晩年に高野山から伊勢へ移るが、その途中に熊野を通ったという伝えもある。その詳細もまたわかっていない。




  
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