日本語と日本文化


天野の尼たち:西行を読む


高野山は女人禁制だった。それでも真言の教えにあずかりたいという女人はいるもので、そういう女人は高野山の麓の天野というところに庵を結んで修行していた。西行が出家のために捨てた妻子も天野で庵を結び、そこで往生した。

西行の妻と娘が天野に行った経緯については、「西行物語」が伝えている。それによると、西行の妻は、夫が出家してすぐに剃髪し、一・二年は娘と一緒に暮らしていたが、娘が九条民部卿の姫で冷泉殿と呼ばれた方の養女としてもらわれた後、高野山の麓の天野というところに庵を結んで仏道修行をした。一方娘のほうは、冷泉殿のもとで成長したが、その話を聞きつけた西行が、娘と再会して、こんなところで人に仕えて老いるよりは、尼になって、母と一緒に暮らし、来世には極楽浄土に生まれ変わりなさいと進めた。娘は父親の進めにしたがって、自ら剃髪し、天野の母を訪ね宛てて、一緒に住んだとある。

異説では、娘は西行の弟に預けられたともいうが、いずれにしても、成長後は母親とともに天野で暮らし、そこで寿命を終えたようである。なお、西行の妻は西行の死後まで生き、娘はさらに母の死後十年ほどは生きていたらしい。

この話は、天野が女人にとっての真言修行の拠点であったということを物語っているのだろう。後世に作られた説教の語り物「刈萱」では、高野山にこもっている男を訪ねて妻と息子がやってくるが、妻は女人禁制の掟に従って麓に待機し、息子が単身高野山に上って父親を探しまわることになっている。この場合、妻が麓で待機した場所というのも、説教のテクストは明示していないが、おそらく天野だったと思われる。天野は、尼野が転化したしたものだろう。

天野には、西行の妻子ばかりでなく、西行ゆかりのその他の女人たちも庵を結んだ。その一人に待賢門院の女房であった中納言の局がいる。中納言の局は、待賢門院の死後世に背いて小倉山の麓に住んでいたが、その後高野山の麓の天野に庵を結んで仏道修行に専念した。その中納言の局を、西行が高野山を下りて訪ねた折のことが、「山家集」に載っている。

「小倉を住み捨てて、高野の麓天野と申山に住まれけり、同じ院の局、都の外のすみか訪ひ申さでいかでかとて、分けおはしたりける、ありがたくなん、帰るさに粉河へまゐられけるに、御山より出で逢ひたりけるを、しるべせよとありければ、具して申て粉河へまゐりたりけり、かかるついでは今はあるまじき事なり、吹上見んといふこと、具せられたりける人々申出でて、吹上へおはしけり、道より大雨風吹きて興なくなりにけり、さりとては吹上に行き着きたりけれども、見所なきやうにて、社に輿かき据ゑて、思ふにも似ざりけり、能因が苗代水に堰き下せとよみて、言ひ伝へられたるものをと思ひて、社に書き付けける 
  天下に名を吹上の神ならば雲晴れ退きて光顕せ(山748)
  苗代に堰き下されし天の川とむるも神の心なるべし(山749)
かく書き付けたりければ、やがて西の風吹き変りて、たちまちに雲晴れて、うらうらと日ありにけり、末の世なれど、志至りぬる事には験あらたなりけることを人々申つつ、信起して、吹上、和歌の浦、思ふやうに見て帰られけり」

昔、待賢門院のところで親しくしていた女房たちに、西行がかいがいしく付き合っているさまが、ほほえましく伝わってくるところだ。この女房たちも、西行よりずっと年上だったはずだ。

西行は、天野に住んでいるゆかりの女たちと、結構足しげく行き来していたようである。




  
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