日本語と日本文化


高野山に入る:西行を読む


久安五年(1149)、西行は高野山に入った。数え年三十二のときである。この年から治承四年(1180)に熊野を経て伊勢に移るまでの約三十年間、西行は高野山を本拠にした。といっても、高野山から外へ出なかったわけではない。京都へは頻繁に行っていたようだし、吉野や大峰にも、修行をかねてたびたび出向いた。また、四国方面へも長い旅をしている。

高野山の中心部、壇上伽藍の一角に、かつて西行の起伏した小さな三昧堂があり、その前に西行手植えの桜があると伝えられているが、これは誤伝だと、目崎徳兵衛の指摘によりながら高橋英夫も主張している。高橋によれば、西行は高野山の中心部に起居できるような高位の僧ではなく、山中どこかの「幽寂な草庵で弟子にかしずかれて暮らしていた」ようである。

高野山での西行の活動を、高橋は三つにわけている。一つは真言行者としての修行。これについては、西行は学問僧ではなく、また、密教のほかに浄土教、修験道、本地垂迹説といった雑多な思想を西行が抱いていたことを上げ、真言密教に専念したのではないだろうと推測している。

二つ目は勧進活動で、これについては、西行が高野山に蓮華乗院を勧進したり、紀州の日前神社造営のために高野山に課せられた費用を免除させたりといった行為をあげて、西行が高野山のために一定の寄与をしたことをあげている。これは、西行の政治的影響力にもつながる話で、西行は後にその力を見込まれて、東大寺の勧進のために第二の陸奥の旅へ出かけている。勧進といえばいわゆる高野聖が連想されるが、西行は高野聖の一群とはかかわらなかったと推測している。

三つ目は、数寄者としての生き方である。高野山と数寄者とがどう結びつくのか、高橋は言及していないが、高野山での西行は、主として歌とともに生きたと推測している。僧には画僧とか匠僧とか専門分野への分化が見られたが、そのうちの一つとして歌僧というものがあり、西行はその代表だったという印象を高橋は持っているようである。

高野山での西行の日常の暮らしぶりをうかがわせる歌が山家集に残されている。まず、西行が京の大原にいる友人寂然にあてた手紙に添えた歌である。寂然は、藤原為忠の息子で、大原三寂と呼ばれた三人兄弟の末っ子だったが、西行はこの兄弟たちと親しくするうちにも、三寂とはことのほか仲がよかった。その寂然にあてて、高野山での暮らしぶりを歌に読んで知らせたというわけである。それらはみな「山深み」ではじまる歌十首からなる。その主なものをあげれば、
  山深みさこそあらめと聞えつつ音あはれなる谷の川水(山1198)
  山深み苔の筵の上にゐて何心なく鳴くましらかな(山1201)
  山深みけ近き鳥の音はせで物おそろしき梟の声(山1203)
  山深み馴るるかせぎのけ近さに世に遠ざかるほどぞ知らるる(山1207)
谷川の音につつまれ、サルや梟の声を聞きながら、鹿がなれて近寄ってくることに世の中との隔絶を感じているこれらの歌は、山中での西行のわびしい暮らしぶりを彷彿とさせる。

これに対して寂然のほうは、「大原の里」で終わる一連の歌を返してきた。そのいくつかをあげると
  あはれさはかうやと君も思ひ知れ秋暮れ方の大原の里(山1208)
  ひとりすむ朧の清水友とては月をぞすます大原の里(山1209)
あなたも高野山の山中でわびしい暮らしをしているようですが、わたしのほうもあなたに劣らずわびしい暮らしをしています、といった思いが伝わってくるような歌である。なお、西行と寂然とが何度となく歌のやりとりをしていたことが、山家集からは伝わってくる。




  
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