日本語と日本文化


陸奥への旅(四)白河の関:西行を読む


白河の関から先が陸奥である。そこに立った際の感慨を、西行は次のように山家集に記している。
「みちのくへ修行してまかりけるに、白川の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が秋風ぞ吹く、と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける
  白川の関屋を月のまもる影は人の心を留むるなりけり

ここで能因法師に言及しているのは、能因の歌「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」を踏まえている。この歌を思いだすにつけても、自分もまた都を立ってはるばるとここまで来た、という感慨を込めたわけであろう。しかもここから先は、この旅の目的地たる陸奥なのである。

ともあれ、能因法師は秋風にはるばるやって来た旅の時の流れを感じたのに対して、西行は関屋に差し込んでくる月の光に、心を引かれ去り難い気持を込めたのだと思う。

なお、白河の関には、後世芭蕉もまた立った。その際の感慨を芭蕉は、「奥の細道」に次のように記している。
「心許なき日かず重るままに、白川の関にかかりて旅心定まりぬ。いかで都へ、と便求めしも断なり。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙に茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとどめ置れしとぞ
  卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
ここで清輔の筆と言っているのは、「袋草紙」のことである。その中に、白川の関を越えるときには冠を調え威儀をたださねばならぬと記されている。それを踏まえて同行の曾良が、晴着のかわりに卯の花をかざして越えましょう、と読んでいるわけである。

白河の関を越えた西行は、どうやらホームシックにかかったようだ。賎が伏せ屋に漏る月を見て、都に残してきた人を思い出し、次のような歌を読んだと、「西行物語」にはある。
  都にて月をあはれと思ひしは数にもあらぬすさびなりけり(山418)
  月見ばと契り置きてし故郷の人もや今宵袖濡らすらむ(家54)
故郷に契り置きてし人が誰なのかは、くわしくはわからない。西行にはこのように、誰とも知らぬ人にあてた歌が結構多いのである。

その後西行は、武隈の松、おもはくの橋といった歌枕を経巡り、そのたびに歌を読んでいる。
  枯れにける松なきあとの武隈はみきといひてもかひなかるべし(山1128)
  踏まま憂きもみじの錦散り敷きて人も通はぬ思はくの橋(山1129)

また、実方の中将の墓を見た際には深い感慨を催したらしく、山家集に次のように記した
「陸奥国にかまりけるに、野の中に常よりもとおぼしき塚を見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申すはこれがことなりと申ければ、中将とは誰がことぞと又問ひければ、実方の御事なりと申ける、いと悲しかりけり、さらぬだにものあはれに覚えけるに、霜枯れ枯れの薄ほのぼの見えわたりて、後に語らんも言葉なきように覚えて
  朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて枯野の薄形見にぞ見る(山800)

実方は、殿上での争いごとがもとで陸奥へ左遷され、そこで死んだ。それもただの死に方ではなく、笠島同祖神の前を下乗せずに通ったために、神罰が下りて落馬して死んだということになっている。多情な人だったらしい。その実方に西行は、どういうわけか同情しているわけである。




  
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