日本語と日本文化


百萬:嵯峨女物狂(能、謡曲鑑賞)


能「百萬」は、観阿弥の作とされ、それに世阿弥が手を加えて今日の姿になったとされる。観阿弥自身は、この曲を「嵯峨女物狂」と題して、得意にしていたという。子別れと女の狂いをテーマにした作品だが、悲しさや暗さはなく、むしろ全曲が華やかな色彩感に溢れている。そのため、正月にもよく演じられる。

観阿弥は、能に曲舞の要素を取り入れることで、この芸能を一歩進ませた作家である。観阿弥はその曲舞を、百萬という女曲舞から習ったとされる。能の中に「クリ、サシ、クセ」として出てくる部分や、謡い方にその影響があるといわれる。

「白鬚」という曲が曲舞を生かした最初の作品といわれるが、この作品(百萬)は、観阿弥による新しい形式の代表作となったものである。世阿弥の時代になって「百萬」と言い換えられたのであるが、それは、観阿弥と女曲舞との因縁に、子の世阿弥がこだわった結果なのかもしれない。

この作品は、生き別れた子を探し求める女の物狂いと、子との再会の喜びを描く。筋はいたって単純で、劇的な展開に欠けているが、そのかわりに節々で演じられる舞が大きな見世物となっている。また、謡も色気があって、観客を厭きさせない。

舞台は、嵯峨の大念仏で知られた清涼寺。今でも京都の嵯峨野に建っており、境内の一角には源融の墓がある。中世には、時宗の念仏道場として多くの人を集めた所である。当時、この道場に限らず、南都北嶺の寺社の祭日には、多くの人々が集まると共に、それらの人々を相手に芸能者たちが集まってきた。いはば、中世の演劇空間だったのである。

ここに、子を訪ね求める女が狂乱の体で登場し、様々に舞尽くしを演じた後、我が子と再会する。母子の生き別れの話は能が好んでとりあげたもので、他に多くの作品があるが、この作品はそれらに比べ、親子の情愛を描くという点ではいたって淡白に見える。そんなところから、この曲は、母子生き別れの筋を借りながら、舞を見せるのが主眼だったのではないかとも、思われるのである。

舞台にはまず、大和から来たと名乗る者が、子方を伴って登場する。子方は狂女が尋ね求める子である。(以下、テキストは「半魚文庫」を活用) 

ワキ次第「竹馬にいざやのりの道。竹馬にいざやのりの道。誠の友を尋ねん。
詞「これは和州三芳野の者にて候。又これに渡り候ふ幼き人は。南都西大寺のあたりにて拾ひ申して候。此頃は嵯峨の大念仏にて候ふ程に。此幼き人をつれ申し。念仏に参らばやと存じ候。

次いで、アイ狂言が入って狂女の到来を告げ、それにしたがって、狂女が念仏を唱えながら登場する。

シテ詞「あら悪の念仏の拍子や候。わらは音頭を取り候ふべし。南無阿弥陀仏。地「南無阿弥陀仏。
シテ「南無阿弥陀仏。
地「南無阿弥陀仏。
シテ「弥陀頼む。
地「人は雨夜の月なれや。雲晴れねども西へゆく。
シテ「阿弥陀仏やなまうだと。
地「誰かは頼まざる誰か頼まざるべき。
シテ「これかや春の物狂。
地「乱心か恋草の。
シテ「力車に七くるま。
地「積むとも尽きじ。
シテ「重くとも。ひけやえいさらえいさと。
地「一度に頼む弥陀の力。頼めやたのめ。南無阿弥陀仏。
地歌「げにや世々ごとの。親子の道にまとはりて。親子の道にまとはりて。なほ子の闇を晴れやらぬ。
シテ「朧月の薄曇。
地「わづかに住める世になほ三界の首枷かや。牛の車のとことはに何くをさして引かるらんえいさらえいさ。
シテ「輓けや輓けや此車。
地「物見なり物見なり。
シテ「げに百萬が姿は。
地「本よりながき黒髪を。
シテ「荊棘のごとく乱して。
地「旧りたる烏帽子引きかづき。
シテ「又眉根黒き乱墨。
地「うつし心か村烏。
シテ「憂かれと人は。添ひもせで。
地「思はぬ人を尋ぬれば。
シテ「親子のちぎり麻衣。
地「肩を結んで裾にさげ。
シテ「すそを結びて肩にかけ。
地「筵片。
シテ「菅薦の。
地「みだれ心ながら南無阿弥陀仏と。信心をいたすも我が子に逢はんためなり。シテ「南無や大聖釈迦如来。我が子に逢はせ狂気をとゞめ。安穏に守らせ給ひ候へ。

ここは、始まって早速変化に富んだ部分であり、シテの動きといい、謡といい、楽しいところである。狂女を見た子方は、いちはやく、この女が自分の母ではないかと見破り、連れのものに尋ねるように頼むが、連れはすぐには子のことをあかさず、女に舞を続けさせようとする。

子詞「いかに申すべき事の候。
ワキ「何事にて候ふぞ。
子「これなる物狂いをよく/\見候へば。故郷の母にて御入り候。恐れながらよその様にて。問うて給はり候へ。
ワキ「これは思いひもよらぬ事を承り候ふものかな。やがて問うて参らせうずるにて候。いかにこれなる狂女。おことの国里はいづくの者ぞ。
シテ「これは奈良の都に百萬と申す者にて候。
ワキ「それは何故かやうに狂人とはなりたるぞ。
シテ「夫には死して別れ。只一人ある忘形見のみどり子に生きて離れて候ふ程に。思が乱れて候。
ワキ「さて今も子といふ者のあらば嬉しかるべきか。
シテ「仰までもなしそれ故にこそ乱髪の。遠近人に面をさらすも。もしも我が子に廻りや逢ふと。車に法の声立てゝ。念仏申し身を砕き。我が子に逢はんと祈るなり。
ワキ「げに痛はしき御事かな。誠信心私なくは。かほど群衆の其中に。などかは廻り逢はざらん。
シテ詞「うれしき人の言葉かな。それにつきても身を砕き。法楽の舞を舞ふべきなり。囃してたべや人々よ。忝なくもこの御仏も。羅ゴ為長子と説き給へば。
地次第「我が子に鸚鵡の袖なれや。親子鸚鵡の袖なれや。百萬が舞を見給へ。
シテ「百や万の舞の袖。我が子の行方。祈るなり。

(イロエ)シテは静かに舞台を一巡して、クリ、サシ、クセと続ける。観阿弥の趣向では、ここが、この曲の最大の見せ場だったのだろう。

シテクリ「げにやおもんみれば。何くとても住めば都。
地「住まぬ時には故郷もなし。此世はそも何くの程ぞや。
シテサシ「牛羊径街にかへり。鳥雀枝の深きに集まる。
地「げに世の中はあだ浪の。よるべは何く雲水の。身の果いかに楢の葉の梢の露の故郷に。
シテ「憂き年月を送りしに。
地「さしも二世とかけし中の。契の末は花かづら。結びもとめぬあだ夢の永き別れとなり果てて。
シテ「比目の枕。敷波の。
地「あはれはかなき。契かな。
クセ「奈良坂の。児の手柏の二面。兎にも角にも侫人の。なき跡の涙越す。袖の柵隙なきに。思重なる年波の。流るゝ月の影惜しき。西の大寺の柳蔭みどり子のゆくへ白露の。起き別れていづちとも知らず失せにけり。一方ならぬ思草。葉末の露も青によし。奈良の都を立ち出でて。かへり三笠山。佐保の川をうち渡りて。山城に井出の里玉水は名のみして。影うつす面影浅ましき姿なりけり。かくて月日を送る身の。羊の歩隙の駒。足にまかせて行く程に。都の西と聞えつる。嵯峨野の寺に参りつゝ。四方の景色を眺むれば。
シテ「花の浮木の亀山や。
地「雲に流るゝ大井河。誠に浮世の嵯峨なれや。盛過ぎ行く山桜嵐の風。松の尾小倉の里の夕霞。立ちこそ続け小忌の袖。かざしぞ多き花衣。貴賎群衆する此寺の法ぞ尊き。かれよりもこれよりも。唯此寺ぞ有難き。忝なくもかゝる身に。申すは恐なれども。二仏の中間我等ごときの迷ある。道明らめんあるじとて。毘首羯磨が作りし赤栴檀の。尊容やがて神力を現じて。天竺震旦我が朝三国に渡り。有難くも此寺に現じ給へり。
シテ「安居の御法と申すも。
地「御母摩耶夫人の。孝養の御為なれば。仏も御母を。かなしび給ふ道ぞかし。況んや人間の身としてなどかは母を悲しまぬと。子を恨み身をかこち。感歎してぞ祈りける親子鸚鵡の袖慣れや百萬が舞を見給へ。
地「あら我が子。恋しや。

ここで、立廻が入り、一曲はクライマックスを迎える。

シテ「これほど多き人の中に。などや我が子の無きやらん。あら。我が子恋しや。我が子給べなう南無釈迦牟尼仏と。
地「狂人ながらも子にもや逢ふと信心はなきを。南無阿弥陀仏。南無釈迦牟尼仏南無阿弥陀仏と。心ならずも逆縁ながら。誓に逢はせて。たび給へ。
ワキ「余りに見るもいたはしや。これこそおことの尋ぬる子よ。よく/\寄りて見給へとよ。
シテ「心強や。とくにも名乗り給ふならば。かやうに恥をばさらさじものを。あら恨めし。とは思へども。
地「たま/\逢ふは優曇華の。花待ち得たり夢か現か幻か。
キリ地「よく/\物を案ずるに。よく/\物を案ずるに。かの御本尊はもとよりも。衆生のための父なれば。母もろともに廻り逢ふ。法の力ぞ有難き。願も三つの車路を。都に帰る嬉しさよ。都に帰る嬉しさよ。

こうして最後は、母子の再会の喜びで終わる。母子の生き別れと再会を描いた作品には、「桜川」や「柏崎」などがあり、いづれも最後は母子の再会の喜びを強調している。一方、世阿弥の長男元雅の作品「隅田川」では、母が子の死を知って絶望するところで終わる。

母子の生き別れは中世人にとって日常に生じうる切実な問題だったのかもしれない。それがために、多くの母子生き別れ劇が作られたのであろう。再会、死別いづれの結果をたどろうとも、観客は息を凝らして見ていたに違いない。

なお、筆者はこの曲を観世清和の舞台で見たことがある。十年近く前のことであるから、観世清和のもっとも盛りの時代のことであっただろう。そのときの観世清和の声は、まことに色気に富んでいた。

この曲は色気のある女を演ずるのであるから、シテには色気が備わっていなければならない。老人のしゃがれ声では、色気は出せないだろう。この曲は、能役者にとっては、そうそう簡単に演じれられるものではない。


    


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