日本語と日本文化


棄民:自力で脱出した日本人たち


棄民という言葉がある。祖国によって捨てられた民という意味だ。祖国によって生活の拠り所を奪われた人々を難民と言うのに対して、棄民とは国家政策によって海外に駆り出されたまま、捨てられた人々をいう。第二次世界大戦終了時には、満州や朝鮮半島にいた多くの日本人が祖国による保護を受けられずに、現地で死んだり、ひどい目にあわされたりした。だからこの言葉は、日本の歴史の一齣を現す言葉として、作られたようなものだ。

戦争終了時、朝鮮半島北部(北朝鮮)には二十数万人の日本人がいた。朝鮮半島南部にいた日本人は、やがて関係国の協議に基づき日本への帰還が始まったが、ソ連が占領した北朝鮮については、協議が整わず、日本人はなかなか帰還することが出来なかった。そうこうするうち、取り残された日本人の多くが死に、その数は一年ほどの間に三万数千人にのぼった。こうした状況の中で、多くの日本人は、祖国の保護をたよらず、自力で脱出した。

今年、そうした脱出者の一部の人に対して、北朝鮮でのたれ死んだ家族の墓参が始めて許された。その模様を、NHKスペシャル「知られざる脱出劇~北朝鮮・引き揚げの真実」が報道した。それを見た筆者は、思わず絶句してしまった。

今回北朝鮮を訪れた墓参団の一員今村さんは、北朝鮮の地方都市で終戦を迎えたが、すぐにソ連兵がやってきて、同胞は略奪や強姦の餌食になり、人口7000人の日本人社会のうち、四分の一の人が死んだ。今村さんの両親もなくなった。国による保護が期待できない日本人社会は、自分たちで北朝鮮を脱出し、日本に帰るほか道が残されていなかった。そこで、集団単位で、北朝鮮からの脱出が始まったが、今村さんの場合には、151名の集団で、船で38度線を超えようという計画に加わることになった。この計画は、様々な困難を乗り越え、参加した人々は無事38度線を越え、ついに日本に帰ってくることが出来た。その時の今村さんは11歳だったという。

北朝鮮から日本に帰還した人の殆どは、こうして自力で脱出した人々だったと番組は分析している。というのも、関係国の協議が整い本格的な帰還が始まったのは昭和21年12月のことであったが、そのプロジェクトによって帰還した日本人はわずか8000人だったというのである。自力で脱出する力のなかった人々が、最期まで現地に取り残されたということなのだろう。




  
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