日本語と日本文化


司馬遼太郎の神道観


司馬遼太郎は、今に続く日本という国のかたちがととのったのは鎌倉時代であり、その担い手は農民としての武士であったと考えているようなので、日本史にかかわる彼の想像力は、精々鎌倉時代の初期までしか及ばないのであるが、神道を語る場合だけはそういうわけにも行かず、古代にまで展望を及ぼしている。しかし彼が語る神道は、八幡神社を軸にしたもので、その八幡神社というのが、武士階級と密接なかかわりをもっていたわけで、要するにこの国のかたちを担った武士階級とのかかわりにおいて神道を論じるというのが彼の特徴である。この辺は武士的価値観を以て日本史を裁断するという司馬の姿勢があらわれているところである。

八幡神社というのは、八幡神を祭っているわけだが、その八幡神というのは、記紀で語られているような日本土着の由緒ある神ではなく、新しく生まれた神だった。そのことを司馬は「湧出」と言っている。この神は、欽明天皇三十二年(571)に湧出し、その際自分は「誉田天皇(応神天皇)だ」と名乗った。日本古来の神々は、本来自然が神に形象化したものだったが、この神の場合にははじめから人格神だったことが最大の特徴だったと司馬は言う。というのも、この神は、異国から来た蕃神だったからだ。その蕃神を日本に運んできたのは渡来人の子孫たる秦氏の一族だった。秦氏は秦の始皇帝の子孫を名乗っていたが、それが五世紀の初め頃日本に渡来し、九州の宇佐地方に定着した。八幡神はその宇佐に六世紀の半ば以降に湧出した、と司馬は言うのである。

この八幡神は仏教をよく理解した。仏教の信者だった聖武天皇はそのことを大いに喜び、宇佐八幡宮の境内に弥勒寺を建立させた。これが後の神仏習合の始まりで、日本の神道はこれ以降仏教と強く結びついて生き残ってゆくこととなる。日本土着の信仰である神道が仏教と融合することで生き残ったというのは、世界史的に見て非常にユニークなことだったと司馬は考えているようである。西洋の場合には、キリスト教の普及に伴って古来の土着の信仰が抑圧されたわけだが、それと比べると日本は古来土着の信仰たる神道が、大した抑圧を受けずに生き残った。そのことで、かのラフカディオ・ハーンを感激させた、そう言いながら司馬は、このことが日本の歴史にとっては、基本的によいことだったと考えているようである。

この八幡神が武士階級と強く結びつくようになるのは、源頼朝が鎌倉の鶴ヶ丘に八幡神を勧請し、この神を氏神として祭るようになってからである。頼朝が何故、もともと蕃神であり源氏の先祖とは何の関係もない八幡神を氏神としたのか、説得力ある説明はない。朝廷によって尊崇されている神を勧請することで、武士としての自分たちの箔を付けたいと思ったのかも知れぬが、確かなことは言えない。確かなこととして言えるのは、それ以降八幡神が、武士たち共通の守護神になっていったことだ、そう司馬は言うのみである。

こういうふうにして司馬は、八幡神を中心にして日本の神道の歴史を整理する。彼の最大の関心は、武士の守護神としての八幡神にあるようだから、八幡神以前からいた日本古来の神々のことはあまり視野に入ってこない。ただ人格神であり、またシャーマニズムの雰囲気を感じさせる八幡神に対して、日本古来の神々は、自然がそのまま神になったものであり、したがってアニミズムの雰囲気を色濃く感じさせると言うのみである。

ともあれ、日本の神道の歴史には二つの大きな転機があったと言える。一つ目の転機は、仏教が日本に入って来た時だ。この際古来の神道が仏教と習合することで生き残ったことについては上述のとおりだ。だが単に生き残ったというのは、あまりにも単純な見方で、神道は仏教と習合することで、本質的な変容を遂げたという面も見る必要がある。司馬も言及していることではあるが、もともとの形の神道には、明確な教義とか信仰の体系とかいったものはなかった。それが仏教と結びつくことで、教義めいたものが生まれ、世界について多少は体系的な見方もするようになった。要するに思弁的になったわけである。しかしそうした思弁は多分に仏教に影響されたものであって、神道固有のものが素直に展開したとは言えない。ということは、神仏習合することで神道は、原始の姿から脱却して、かなり違うものに変化したと指摘できるわけである。

二つ目の大きな転機は明治維新だ。維新の際の神仏分離・廃仏毀釈運動によって、神道は仏教と切り離され、更に国家神道という形で新たに再編成された。純粋な宗教から政治の一環へと組み直されたわけである。この転換は神道そのものにも巨大な影響を与えたはずであるが、それについて司馬はあまり語ることがない。近代の国家神道は、もはや神道といえるようなものではなくなった、という認識が働いているのかもしれないが、司馬本人が語らないので、そのへんはよくわからない。

そんなわけであるから、国家神道の象徴的な現象たる靖国神社についても、司馬は深く追求することがない。靖国神社は、維新の官軍が自軍の戦死者の魂を慰めるために作った、というくらいのところでとどめている。




  
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