日本語と日本文化


氷川清話を読む


「氷川清話」は、吉本襄が明治三十一年に勝海舟の談話集と銘打って刊行したもので、吉本自ら勝から聞いた話を聞書きしたものや、勝が別途新聞雑誌等の場で行ったインタビューのようなものを集めたといわれていた。ところが敗戦後になって、江藤淳と松浦玲が本の内容に重大な疑義を呈した。この本の中には勝が言うはずのないことが書かれており、したがって偽作の疑いが強いというのが疑義の内容である。彼らは、吉本が利用したというインタビュー記事の原本にあたり、それと吉本の本とを比較することで、吉本による歪曲の実態を明らかにしたうえで、彼らなりに決定版と考えた「氷川清話」を刊行した。今日講談社学術文庫の一冊として出ているのがそれで、いまではこちらが「氷川清話」の標準版として読まれている。筆者もまたそれを読んだ。

晩年の勝海舟は、吉本のほかに巌本善治に対しても談話のようなものを提供しており、それをもとに「海舟座談」が刊行された。「座談」のほうはすべて、巌本が明治28年以降、直接海舟に対して行ったインタビューの記録である。それに対して「清話」のほうは、先程も書いたように、吉本が海舟に対して行ったインタビュー(明治30年が中心)のほかに、新聞雑誌等に発表されていたインタビュー記事を拾い集めたものである。巌本のほうは、ほぼ忠実に海舟の話を拾っているのに対して、吉本のほうは、海舟の話を歪曲して記録しているほか、海舟が本来発言した話を大分除外している。除外された部分は、時の政府に対する海舟の批判的な意見のようだ。こうすることで吉本は、海舟がものわかりのよい爺さんであるかのような印象を、世人に与えることを意図したということらしい。

江藤らは、新聞雑誌等に発表されていた記事については、その原本と吉本の本とを比較することで、吉本による記事の歪曲やら、吉本が海舟の話したどの部分をオミットしたかについてはある程度検討して訂正できたが、吉本が直接海舟の話を聞書きしたという部分については、比較の材料がないので、そのまま掲載している。その場合に、彼らなりに感じた疑問については、その旨を注で説明したという。

「清話」と「座談」を読み比べると、まずその語り口が大分違うのに気付かされる。「清話」のほうが、江戸っ子言葉を感じさせて、歯切れがよい。従来、海舟の談話集のうち、「座談」より「清話」が好まれてきたのは、この語り口のためだったと思う。

「座談」のほうは、巌本の質問誘導の仕方もあるのだろうが、海舟自身にかかわる自慢話が殆どだったが、その点でいささか手前勝手な感じがしないではないが、こちらの「清話」は、自慢話もかなりあるが、そのほかに時局についての海舟なりの意見やら、日清戦争についての批判なども記録されていて、その分間口が広いとの感を受ける。日清戦争批判などは、海舟が新聞雑誌等に発表したものらしいが、吉本自身はこうした海舟の政治的な発言をだいぶオミットしたようだ。その部分を江藤らが拾い上げて、この「決定版」に入れたことで、海舟の人物像をやや拡大した形で、我々現代の日本人に提示したわけだ。その点では、江藤らは、海舟研究のために些かの貢献を誇ってよいのではないか。

海舟自身の自慢話やら、維新前後の時局の回想、そこで活躍した人物の評価については、「座談」でも十分開陳されていたので、ここでは重ねて取り上げない。ここで取り上げたいのは、日清戦争に対する海舟の批判的な姿勢についてである。

海舟が日清戦争に反対だったことはよく知られている。海舟はそうした意見を新聞雑誌に遠慮なく発表した。そうした文章を吉本は、時の空気をはばかって「清話」ではできるだけ触れないようにしたようだ。触れたにしても、日清戦争の最中に言ったこととしてではなく、戦争が終わってから、それを回顧したような形に歪曲したらしい。それはともかくとして、海舟が日清戦争に反対する理由が面白い。

海舟は、日清戦争を、兄弟喧嘩にたとえて、本来東洋人として兄弟同士であるものが喧嘩をして、そのことで西洋人に付け入るスキを与えるのは馬鹿げていると言うのである。本来なら、日本と中国とは、東アジアの兄弟として、合同して西洋人に対抗すべきなのだ。それが内輪の兄弟喧嘩に夢中になって、西洋人に漁夫の利をもたらしてやるのは、いかにも芸がない、そう海舟は考えるのである。そうした思いを海舟は次のような絶句に込めた。
  隣国交兵日 其軍更無名
  可憐鶏林肉 割以与魯英

日本が中国と兄弟喧嘩をして中国を懲らしめ、弱らせたのを見て、ロシアとイギリスが大もうけをしたというわけである。そこで海舟は、「支那を懲らすのは、日本のために不利益だった」と断定するのである。だが、海舟は日本に懲らしめられた中国を、勝者のおごりからバカにするようなことはしない。歴史的に見て、中国が日本のお手本であったということは脇へおいて、中国人持ち前の悠然たる姿勢に、国民の風格のようなものを感じ取って、中国人恐るべしとの感慨を抱いているようなのだ。海舟がもっとも注目するのは、中国人の権力に対する基本的な態度だ。それを海舟は次のように言う。

「支那人は、一国の帝王を、差配人同様にみているヨ。地主にさへ損害がなければ、差配人がいくら代っても、少しも構はないのだ。それだから、開国以来、差配人を代ふること十数回、こんな国状だによって、国の戦争をするには、極めて不便な国だ。しかし戦争に負けたのは、ただ差配人ばかりで、地主は依然として少しも変らない、といふことを忘れてはいけないヨ。二戦三戦の勝をもって支那を軽蔑するは、支那を知る者にあらず・・・支那人は、帝王が代らうが、敵国が来り国を取らうが、殆ど馬耳東風で、はあ帝王が代ったのか、はあ日本が来て、我国を取ったのか、などといって平気でゐる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、誰が来て国を取らうが、一体の社会は、依然として旧態を存して居るのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体を蚊か虻が刺すくらゐにしか感じないのだ」

ここからして海舟は、支那は国家ではない、という結論を導き出す。「あれはただ人民の社会だ」というのである。それを日本と同じような基準を当てはめて、日本という国が支那という国に勝ったのだといって、喜んでいるのは他愛ないということになる。日本が国対国の戦争だと思っていても、支那人のほうでは、「あれは李鴻章の関係の兵が動いたまでサ。恐らく支那人は日清戦争のある事さへ知らぬ人があるくらいサ」といった状態で、そんな支那人を日本人と同じ基準で見ようとすると、とんだ考え違いをすることになる、と海舟は言っているようなのだが、そのことで果たして何を言いたいのか、そのへんのところは、いまひとつ明らかでない。海舟はただ、次のように言うのみである。

「支那人は昔から民族として発展したもので、政府といふものにはまるで重きを置かない人種だよ。これがすなはち堯舜の政治さ。この呼吸をよく飲み込んで支那に対せねば、とんでもない失敗をするよ」

こうした海舟の中国観は、学問を通じてというより、李鴻章とか丁汝昌といった人達との交友から学び取ったものらしい。ともあれ日中関係についての海舟の基本的な見方は、この両国が兄弟同士として、ともに手を組んでアジアの盟主となり、欧米の侵略に対抗しようとするものだったといえる。しかし歴史の実際は、そうはならずに、日本は中国との間で、半永久的な敵対関係に陥ることとなった。いまでもなお日本は、アメリカの尻馬に乗って、中国への敵対を続けているわけだ。海舟がこれを知ったら、どう言うか。





  
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