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諫暁八幡抄:日蓮の神祇観


「諫暁八幡抄」は、弘安三年(1280)の十二月に書かれた。この年は、蒙古再襲来の前年である。第一次襲来から六年たっており、再襲来近しとの異常な緊張感が日本全土にみなぎっていた。この書はそうした緊張感を背景にして書かれている。文書の名宛人は、日蓮の弟子たちは無論、北条政権はじめ日本の権力者のすべてに向けられていた。題名にあるとおり、この書で日蓮が取り上げるのは日本古来の神への批判である。日本古来の神が、法華経をあなどり、しかも法華経の行者である自分を迫害したことに、仏たちが怒って天罰を下したのが蒙古襲来である。このまま態度を改めねば、日本は再度蒙古に襲来され、滅びるであろう。そういって日蓮は、日本古来の神が法華経に帰依すべきことを説いている。そこには日蓮一流の神祇観が見られる。そういうわけでこの書は、日蓮の神祇観を代表するものとして位置付けられている。

日蓮がこの書を書いた直接のきっかけは、弘安三年の十二月に鶴ケ丘八幡宮が炎上したことだと思われる。鶴ケ丘八幡宮は、北条政権の氏神であるのみならず、日本国の守護神でもある。その守護神が、外国の侵略を目の前にして自爆するように炎上したのはどういうわけか。日蓮は深い問題意識をもった。その問題意識が日蓮にこの書を書かせたのだと思う。しかも八幡宮は、最初の蒙古襲来の際にもぶざまな様をさらした。筥崎の八幡宮が蒙古襲来を前にして炎上したのだ。二度にわたりこういうことが起きたのは、日本の守護神が祟られているからではないか。それは日本の守護神たる八幡宮が、法華経をあなどり、しかも法華経の行者である日蓮を迫害していることに仏たちや諸天が怒って天罰を加えようと思ったからに違いない。そう日蓮は考えて、八幡宮を強く諫暁するとともに、為政者や国民に対して法華経への帰依を呼び掛けたわけであろう。

日蓮は独特の神祇観をもっていた。当時流行していた本地垂迹説のバリエーションともいえるものだが、それは仏教を主人とし、日本の神を従者とするものであった。その仏教は日蓮にとっては法華経を意味していたから、日本の神々は法華経の従者たるべきだと考えていたことになる。ところが現実には、日本の神々を代表する八幡宮が、法華経をあなどり、あまつさえその行者を迫害している。それに仏教の諸仏や諸天等が怒って、八幡宮に懲罰を加えた。その懲罰の意味を八幡宮はよく理解して、己の本分たる法華経の従者としての自覚を深めるべきである、というのが日蓮の基本的な主張である。

ここで、八幡宮についての日蓮の認識を整理しておこう。日蓮は、八幡宮のそもそもの本体を応神天皇だとする。その応神天皇が死後数代を経た欽明天皇の時代に神となってあらわれた。その時にはいまだ仏教は普及していなかったので、八幡宮と仏教にはかかわりあいはなかった。仏教が伝わった後でも、それは小乗だったり法華経以前の経であったりして、正しい仏教との関係はもてなかった。その後伝教大師の時代に法華経が正しく伝えられると、八幡は法華経の従者としての地位を確立する。しかも八幡宮は、日蓮によれば釈尊の生まれ変わりという位置づけである。本地である釈迦が、日本の守護神八幡として垂迹したというのが日蓮の基本的な見方である。

だから八幡は本来、大菩薩という名が示すように、釈尊の生まれ変わりとして、日本の守護神であると同時に仏教すなわち法華経の守護でもあるべきなのだが、どういうわけか、その役割を正しく果たしていないばかりか、法華経を迫害している。これは天地を逆さにするような暴挙であって、仏教の諸仏・諸天が怒るのは無理もないのである。

そんなわけであるから日蓮は、「今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して天火に焼る、かくの如し」と言い、「日蓮一分の失なくして南無妙法蓮華経と申す大科に、国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて、一国の謗法の者どもにわたらせ給ひしは、あに八幡大菩薩の結構にあらずや」といって、八幡を厳しく非難するのである。

これでは八幡の本地たる釈尊に対して申し訳が立たないではないか、というのが日蓮の憂いの本体である。日蓮は言う、「遠くは三千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり。近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子なり。今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし、釈迦仏をすて奉り、影をうやまって体をあなづる、子に向かって親を罵るが如し」

だからもはや八幡に期待するわけにはいかぬ。しかし仏が日本国を全く見捨てたというわけでもない。日本国に聖人があらわれ、法華経を受持して正しい行いに励むならば、あるいは日本国を守護してくれるかもしれない。日蓮こそその聖人にほかならない。そう日蓮は主張して次のように言うのである。「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す。あに聖人出で給はざらむ」

文書の結びは、このような日蓮の抱負を以て次のように締めくくられている。「各々弟子等はげませ給へ、はげませ給へ」。日蓮がこの呼びかけを行ったのは、鶴ケ丘八幡宮が炎上したその月のうちである。日蓮がいかに急迫にかられていたかが、しのばれるというものである。



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