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阿漕:西行を読む


世阿弥の作と伝えられる能に「阿漕」という作品がある。伊勢の阿漕が浦に伝わる伝説を取り上げたものだ。阿漕とはその地の漁師の名であったが、その男が、伊勢神宮にお膳を供えるために一般の漁が禁止されていた海でたびたび漁をした。それが発覚してお咎めをこうむり、この海に沈められてしまった。それ以来このあたりの海を阿漕が浦と呼ぶようになったという話である。それが何故か、早い時期から西行の伝説と結びついた。阿漕はすこしならばれないと思ってやっていたところ、それが度重なったために発覚してしまったのだが、それと同じように、西行も思い人にたびたび懸想したために片恋がばれてしまった、というふうに伝わるようになったわけである。

能では、九州から出てきた旅人が、阿漕が浦にさしかかったところで、土地の漁翁に出会い、阿漕が浦にまつわる伝説を聞かされる。漁翁は、阿漕がどのようにして海に沈められたか、その由来と経緯を語る。以下はその部分のハイライトである。

地「娑婆にての名にしおふ。今も阿漕が恨めしや。呵責の責も隙なくて。苦しみも度重なる罪弔はせ給へや。
クセ「恥かしや古を。語るも余りげに。阿漕が浮名もらす身の。なき世がたりの色々に。錦木の数積り。千束の契り忍ぶ身の。阿漕がたとへ浮名立つ。憲清と聞えし其歌人の。忍び妻阿漕々々と言ひけんも。責一人に。度重なるぞ恋しき。」

阿漕の運命について語っていた漁翁が、途中で西行の話に切り替えるが、それはこの漁翁自身に西行の霊が乗り移ったことを感じさせる。西行が漁翁の姿を通して、自分の片恋のつらさを訴えているように見えるのだ。

世阿弥は、阿漕と西行とを重ね合わせるこの話を、源平盛衰記からとったのだと言われる。それによれば、西行は、「申すも恐れある上臈女房」に懸想したが、人から「あこぎの浦ぞ」と忠告されて思いとどまり、出家の決意をしたということになっている。その「あこぎのうらぞ」というのは、次の古歌を踏まえたものだ。
  伊勢の海あこぎが浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ
世阿弥はこの古歌の伝える古い伝説を、西行の片恋と結び合わせたわけである。

このように、西行がさる身分の高い上臈に片恋をしていたというのは、古くから伝わっていた話のようである。そこで、この話は本当なのか、もし本当だとすれば、相手の女性は誰なのか、という憶測が、西行の死後から今現在にいたるまで、日本人の想像力を刺激してきたのである。

この話からもわかるように、西行は坊主とはいえ、この世から超脱したような人ではなかった。片恋をあきらめて出家したというが、それで西行が枯れてしまったということではない。西行は生涯の様々な時期に、夥しい数の恋の歌を詠んでいる。それらの歌を読むと、この男は生涯恋の煩悩から脱しきれなかったのではないかと思われるほどである。

なお世阿弥の「阿漕」は、「鵜飼」、「善知鳥」とならんで能の「三卑賤」と呼ばれ、もともとは動物の殺生を戒める為の、教訓が主なテーマになっている。教訓ものは世阿弥には似合わないというので、これを世阿弥の真作だと考えない研究者もいるようだ。


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