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日本人のパンパン・コンプレックス(その六)


日本の歴史の中で、男優位の原理が男尊女卑という形で確立されたのは明治時代である。明治維新は、徳川幕府から西日本の藩閥勢力への権力の移動をもたらしたが、新たに権力の座を占めた藩閥勢力が行ったことは富国強兵政策である。国を富まし兵力を充実させなければ、欧米列強に植民地支配される恐れがあったからだ。その考え自体は間違っていないと思うが、しかしそれが男尊女卑の方向をとると、女たちにとって住みにくい社会が訪れるのは如何ともなしがたかった。

富国強兵は、国を富ますことと兵力の充実を意味していた。そのうち国を富ますことについては、国家主導の開発型資本主義政策がとられた。これは天皇制の絶対権力を背景にしていたから、開発独裁の一例といってよかった。開発独裁は近代化の王道といわれるとおり、短期間で近代化を達成できるメリットをもっている。またそれは資本主義システムと結びついて、国民の間に貧富の差をもたらす。つまり資本主義は国民を、富者と貧者、男と女、強者と弱者に二極分化させる。その分化のプロセスのなかで、男の女に対する優位が確立された。また、強兵政策はすべての男子国民を対象とした徴兵制度を導入した。日本は近代国家として歩みだした当初から、巨大な軍事国家をめざし、じっさい短期間にその目的を達成した。日本が日清・日露の両戦役に勝利したのはその成果である。

このようにすさまじい勢いで富国強兵政策を追求する過程で、男中心の支配原理が確立されていった。その原理を推進したものとして、神道の普及と家族制度の立て直しがあげられる。薩長を中心とした西日本の藩閥勢力は、神道を重視する伝統をもっていた。その神道には男尊女卑の思想が色濃く盛り込まれていた。神道は本来記紀神話を尊重するものであり、その限りで天照大神の体現する女性原理への敬意を含んでいても良かったはずなのだが、幕末頃の神道は男尊女卑の考えに染まっていた。その神道が優勢な藩閥勢力のなかで、薩摩などは比較的女を大事にする文化があったが、長州や津和野の神職には男尊女卑に凝り固まったものが多かったようである。明治時代における神道復権運動は、長州と津和野の神職たちが率先して行ったものであり、したがって神道全体として男尊女卑の方向へと傾いていった。

一方、家族制度については、明治政府は、家を社会の基本単位として、家中心の家族制度を作りあげた。その制度の中で、女は男に従属するものとしての立場を強いられるようになった。それを法的に整備したのが民法の家族法であった。日本民法の家族法は、フランス民法を手本にしたものだ。そのフランス民法には男尊女卑の思想があって、それが明治政権の眼鏡にかなったというわけである。その男尊女卑は、男の法的な権利の強調という形をとるが、その典型として姦通罪をあげることができる。フランスでは、男が不倫をしても罪には問われないが、女が不倫すると厳しい刑事罰を課されるのである。これは究極の男尊女卑といえる。

フランスの女は、ラブレーの時代から性的奔放さで知られており、その女の性的な逸脱を抑えることがフランス民法の主な目的だったようだ。その点では一定の合理性を主張できるのだが、日本の女は貞淑なことで知られている。よほどのことがなければ、婚外性交にふけったりはしない。そこに姦通罪を導入しようというのは、女にタガをはめるというより、男の権威を高々と宣言することが目的だったのではないか。

じっさい、民法が男権拡張に果たした役割は巨大だった。男の権利が強調されるあまり、女は男の付属物として扱われるようになった。女は、結婚しても実家の姓で呼ばれるというのが、それまでの伝統であった。それはたとえば、依田学海の日記からもうかがわれる。そこでは母親が実家の姓で呼ばれている。実の息子さえ母親を実家の姓で呼んでいるというのは、色々な見方があると思うが、やはり女の自主性が尊重されていた現れではないか。その女が男の姓を名乗るように強制されたのは、新しい民法のせいであった。それによって、女はますます男への従属を強いられるようになったのである。

いま、夫婦別姓の是非が論じられている中で、保守派を称する連中からは。夫婦が姓を同じくするのは日本の伝統的な美風だという主張がなされているが、それはたかだか明治以降に、しかも権力による強制によって出来上がった制度にすぎないのである。

そんなわけで、明治以降、男優位のシステムが確立され、男尊女卑の風潮が広がっていくにつれて、女は男への従属を深めていった。日本は国をあげて世界の一流国家になることを目指したが、それは男が前面にたって行うべきものだった。いわば、男たちが男根を振りたてながら海外に勇躍し、女はそれを陰で支えるという構図が完成したわけである。明治維新から昭和の敗戦に至るまでの、約八十年間は、日本社会が男優位へと転換し、その男が国を亡ぼすに至ったというふうに概括できなくもない。かつて司馬遼太郎は、昭和の二十年間を異胎の時代と呼んだが、上述のことを踏まえれば、明治以降の八十年間がまるまる異胎の時代だったといえなくもない。女を抑圧し、その抑圧の上に男が暴走するというのは、どうみても正常ではない。日本は太古以来の長い歴史を持っているが、明治維新以降の八十年は、それ以外の時期と比べてあまりにも異常である。その異常さが国を滅ぼした。やはり国というものは、さまざまな点でバランスがとれていなければならない。男女の平等はそうしたバランスの中でも最も核心的なものだ。女を軽視する社会は健全な社会とは言えないのである。

だから、敗戦で国が滅び、従来の価値観が揺らぐと、当然男尊女卑の風潮も挑戦を受け、女たちは自分たちにふさわしい待遇を求めるようになった。そうした女たちの思いは、国を滅ぼした男たちへの軽蔑となってあらわれ、それが征服者である米兵への接近をもたらした。パンパンとは、敗戦で意気阻喪する日本の男たちを尻目に、米兵と仲良くする女たちを意味する言葉だった。その言葉には、尻軽な女への軽侮とともに、彼女らにそのような態度を許した男たちの自嘲の気分が含まれていた。

ともあれ、男たちは深刻な心理的危機に陥った。それをパンパン・コンプレックスと小論は呼ぶわけだが、そのコンプレックスは、征服者に対する劣等感と、それの裏返しとしての奇妙な優越感を伴っていた。劣等感は、その後の対米従属のシステムをつねに支えてきた。一方優越感のほうは、夜郎自大的な自尊心となって現れた。石原兄弟はそうした日本男児の優越感を象徴する存在だった。兄の慎太郎が、アメリカ何するものぞという意地と、日本男児の優秀性をことさらに叫ぶ一方で、弟の裕次郎は、そうした日本男児の優秀性を体現する存在だった。日本人の対外的なイメージとしては、短足で出っ歯というのが一般的だったが、裕次郎は、日本人としては脚が長く、しかもそれなりにハンサムだった。これなら横柄なアメリカ人にもヒケをとらない。そういう新しいタイプの日本人男性があらわれることで、日本の女たちが再び日本の男に関心を示すことが期待された。じっさい裕次郎は、女よりも男に人気があった。女は裕次郎をアメリカ人と比較しながらそのかっこよさを評価しただけだが、男たちは裕次郎を自分たちの希望の星と受け取ったのである。



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