日本語と日本文化
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日本人のパンパン・コンプレックス(その七)


パンパン・コンプレックスを小論は、フロイトの社会理論を適用して説明しようとした。フロイトの社会理論は、精神分析学の成果を応用したものである。精神分析学は、人間の無意識的な抑圧が個人の人格形成に大きな影響を及ぼすとし、その無意識的な抑圧の代表的なものとしてエディプス・コンプレックスを位置付けていた。エディプス・コンプレックスとは、人間にとって根源的な衝動である性的リビドーが強い抑圧を受けて成立するものである。そのエディプス・コンプレックスは集団においても見られる。まったく同じものではないが、基本的には同じメカニズムにしたがっている、とフロイトが考えた。それはとりあえずは、父親殺しをきっかけとしたものだが、その根底には女をめぐる父親と息子達との葛藤がある。つまり、集団レベルにおいても、性的なリビドーが集団の行動様式を大きく規定しているわけである。

フロイトによれば、すべての民族は父親殺しを体験しており、そこからその民族の文化が生じた。父親殺しへの後悔が息子たちの間に倫理的な感情をひき起こし、それが集団の掟としての道徳の形成など文化の発達をもたらしたというのである。その掟はまず、タブーという形をとった。タブーはトーテムと強く結びついていたが、トーテムとは殺された父親の象徴であった。トーテミズムにおいては、トーテムは神聖犯すべからざるものであるが、それは父親の権威を言い換えているのである。また、トーテムを殺して食うという習慣は、父親殺しの反復行為とみなされる。

トーテミズムをはじめ、新たな文化の形成者は、父親を殺した息子達である。息子たちは力を合わせて父親を倒したのであるが、父親を倒した後は、自分たちが協力し合って新たな共同体作りに励んだ。そのなかで、母親や姉妹とは性交してはいけないというタブーを作った。そうしたタブーは、ほかにもさまざまな領域で設定されたが、それらが原始的な宗教に結実し、また、文化の基礎となった。文化とは、個人を共同体につなぎとめることを目的として開発された、とフロイトは考える。

フロイトの社会理論の特徴は、人間のそもそもの歴史の始まりには、強い父親がいたという仮説に寄りかかっていることである。人類はまず、父権的な共同体として始まったというわけである。その父親が息子たちによって倒され、その息子たちが共同して新しい協同体を形成した。父親にしろ、息子たちにしろ、男たちの力によって共同体が形成されたというのがフロイトの社会理論の核心である。女は脇役でしかなく、重要な役割を果たすことがない。これについては、フロイト固有の女性蔑視が働いている可能性があるが、ここではそれを棚上げにして、フロイトの社会理論が男性中心のものであることを確認しておけばよい。

こうしたフロイトの社会理論は、日本の場合には当てはまらないように見える。記紀神話を持ち出すまでもなく、太古の日本が母系社会であったことはほぼ確実であり、歴史時代に入って以降も、女性が強い力を持ち続けた。男が女に対して比較的優位に立つのは、せいぜい平安末期以降のことであり、それには男性原理にしたがっていた武士層の台頭という事情が強く働いた。近世を通じても女性の力には根強いものがあった。男が女に対して完全な支配権を確立するのは明治以降のことにすぎない。そんなわけだから、日本は女性原理の強い社会であり、フロイトが描いたような男性原理中心の社会のあり方とはかなり異なっていたと言わざるをえない。

にもかかわらず、日本にも父親殺しに似た事態がなかったわけではないし、また、男性原理が一定の影響力をもったということも指摘できる。

まず、日本にも父親殺しに似た事情があったという点については、神功皇后をめぐる記紀の記述から見て取ることができる。この記述の要点は、仲哀天皇が神の怒りに触れて死んだということと、仲哀天皇の死後かなり経ってから応神天応が即位したということである。これらからは、応神天皇は外来の征服王であり、仲哀天皇はその征服王によって殺されたという可能性が導き出される。それが真実だとすると、日本でもフロイトのいう原父殺しが起っていたということになる。もっともその父親殺しは、息子たちによってではなく、外国からやってきた征服者の仕業だった。つまり日本人は、外国人によって父親を殺され、その外国人が母親を足がかりにして、日本の新たな支配者になったと言えるわけである。

これは実に容易ならぬ事態である。民族の父親が外国人によって殺されたということは、要するに民族全体が外国人によって征服されたということである。その場合に、父親(仲哀天皇)の妻であった母親(神功皇后)は、外国人を日本の支配者として正統化するための媒介者としての役割を果たしたといえる。こうした事態は、父権を前提にすると民族の断絶を想起させるが、母権を前提にすれば、民族の連続性が保証されることになる。つまり日本民族は、母権の系統を通じて連綿とつながっていると言えなくもないのである。

とはいえ、父親を外国の征服者に殺されたということは、日本人とくに日本の男たちに深刻な影響を与えたに違いない。フロイトのいう原父殺しのケースでは、父親を殺した息子たちが協力し合って新しい協同体の形成に向かったのであるが、日本の場合、息子たちは、父親を外来の征服者に殺されるのを黙って見ていただけであり、また、父親死後の国の立て直しにも、ほとんど影響することがなかった。歴史時代になってからの日本文化の礎は、大陸からやってきた帰化人によって据えられたといえるのであるが、それは日本が外来勢力によって支配されたということを物語っているのではないか。その場合、日本の男たちには、出番はあまりなかったかもしれぬが、女にはあっただろう。女は、母権を通じて文化の基盤に絶えず影響を及ぼすことができた。もし日本に文化の連続性を認めることができるとすれば、それは女の力によるものと言ってよい。

ともあれ、神功皇后にまつわる記述と同じような事態が敗戦した日本にも起ったといえる。仲哀天皇が殺されたと同じような意味で、昭和天皇も殺された。無論物理的な意味で言っているのではなく、あくまでも象徴的な意味で殺されたと言っているわけであるが、敗戦前の国父としての天皇は否定されたのである。天皇を事実上そういう状態に陥れたのはアメリカの占領者たちである。その外来の征服者によって、国父が死んだも同然の状態に置かれたというのは、仲哀天皇が外来の支配者によって殺されたこととパラレルである。つまり日本人は、古代に起った父親殺しを、昭和の敗戦の際に追体験したと言えるのである。

一方、日本では男性原理も一定の役割を果たしていたとはどういうことか。日本の歴史のうえで、男性原理が比較的に優位になるのは平安時代末期であり、それは、武士層の台頭を背景にしていたと言った。以来武士層は、明治維新まで日本を政治的・社会的に支配してきた。武士層のエートスは男性原理そのものであるから、武士層の支配が固まるにつれて、社会の隅々まで男性原理が浸透していった。通い婚から嫁とり婚への婚姻形態の移行や家長たる父親を中心とした家制度の確立は、その中核をなすものである。それでも男性原理が完全に社会を覆うことはなかった。徳川時代においても、女性の自立はかなりな程度保証されていたのである。男性原理が完全に支配権を確立するのは、明治時代以降のことである。その男性原理の勝利は、数百年をかけた男女の闘争の結果であったが、男にとって折角手に入れた男性支配が、昭和の敗戦によって根底から揺らいだ。戦争に負けただらしない男たちを尻目に、女たちが自己主張を始めたのだ。その自己主張を体現していたのがパンパンガールたちであり、彼女らの自己主張に直面して、敗戦ショックとならんでジェンダーショックともいうべきものに日本の男たちは見舞われた。そのダブルショックを小論は、パンパン・コンプレックスと称するわけである。



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