日本語と日本文化
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日本人のパンパン・コンプレックス(その二)


坂口安吾の小品に「パンパンガール」と題するものがある。坂口が数人のパンパンとざっくばらんに語り合った様子を描いたものだ。これを書いたのは昭和22年、日本はまだ敗戦のどさくさの中にあり、男たちはうしひしがれていたが、パンパンたちは陽気だった。その陽気さを坂口は「自由で、自然で、明るい」と言って、褒めている。坂口は戦後すぐに「堕落論」を書いて、敗戦が日本人の心の中まで堕落させたと批判していたが、そんな坂口の目にも、女たちは、堕落どころか、生き生きとして自律的に生きていると映ったようだ。女たちはそれまで自分たちを押さえつけていた男たちの文化が崩壊したことで、かえって解放されたと感じ、自分本来の生き方を追求し始めたように、坂口の目には映った。少なくとも彼が接したパンパンガールたちは、自由で生き生きとした雰囲気をただよわせていたようだ。

そうした戦後日本の女たちを、生来の天邪鬼である坂口は好意的に見ていた。「パンパンは一国の文化のシムボルである」と言っているほどである。だが、普通の日本の男たち、特に若い連中はそうは見なかった。かれらがとりあえず感じたのは、自分たちが女たちによって捨てられたという無念さであった。じっさい、敗戦後のどさくさの中で米兵たちがやってくると、女たちはいっせいにかれらになびいた。国内に若い男が不足していたという事情も当然あったが、それのみでは、パンパンの繫茂は説明できない。日本の女たちは、敗戦にうちひしがれた日本の男たちに愛想をつかし。より強い生きものである米兵になびいたのだ。メスがより強いオスを配偶者に求めることは、生物界の鉄則であって、人間もその例外ではない。そこに文化的な要因がかさなり、旧態依然たる陋習にうんざりさせられていた女たちが、解放感の発散を兼ねて若い米兵とくっついた、というのはいかにも自然な流れであった。

女たちがいっせいに米兵になびくのを見た日本の男たちは、怒りにかられる元気もなく、それを呆然と見ているほかなかった。なにしろ肉体的な魅力ではとてもかなわないし、それに戦に負けて意気消沈しているところは、女から愛想をつかされて仕方ないところがあった。男たちは、女が米兵とくっつくのを指を加えて見ているほかはなかったのである。

そうした事情が日本の男たちに強い劣等感をもたらした。劣等感は、強いものによって支配されているという感情と、それへの反発からなる。被支配感情は愉快なものではないから、普通は無意識のうちに抑圧される。そこに心理的なコンプレックスが形成される。このコンプレックスという概念はフロイトのエディプス・コンプレックスをモデルとしたものだ。フロイトの場合、両親に対する性的な感情が抑圧されることからエディプス・コンプレックスが形成されると考えたが、パンパン・コンプレックスは劣等感の抑圧を、その形成の源泉としている。

このようにパンパン・コンプレックスは、さしあたっては劣等感を内実とするが、それが反転して妙な優越感に転化することがある。フロイトのいう補償のメカニズムの一種であろう。そうした優越感を劇的な形で表現したのが作家の石原慎太郎である。石原は敗戦時には13歳の少年であり、女を女として意識していたわけではなかったろうが、しかし日本の女の変わりようと、それが伝統的な日本文化に大きな打撃を与えていることは肌で感じたようだ。かれは長ずるにしたがって、戦後における日本人の堕落ともいうべきふがいなさと、それの大きな原因となった女たちの傍若無人な振舞いに大いに反発した。石原の生涯をかけてのテーマは、日本の男たちに男としての自信を取り戻させることであり、女たちに日本の男のよさを認めさせることであった。かれの有名な小説「太陽の季節」は、女たちの前で粋がって見せる男たちの涙ぐましい姿を映し出していたわけである。

石原の実弟石原裕次郎は、日本の男の鬱屈した劣等感の裏返しとしての妙な優越感としての誇りを体現した存在だった。日本の男だってパンパンを惹きつけるくらいの魅力はある。裕次郎は日本人ばなれしたスタイルの持ち主で、アメリカ人にもひけをとらない。パンパンだってうっとりするにちがいない。じっさい、パンパンのみならず、日本中の女たちが裕次郎に夢中になった。男は男で、裕次郎のかっこよさが日本男児の価値を高め、自分たちもそのおすそわけを得て、女たちに見直してもらえるのではないかと期待できたほどである。そこに日本社会は、完全な復興へのたしかな手ごたえを得た。復興とは単に物的な繁栄ばかりでなく、精神的な文化の発展をも含む。女と男の関係は、文化の華ともいえるものである。

石原兄弟は、色々な部面で日本人の誇りの高揚に協力し合った。どちらかといえば、弟の人気が先行し、兄はその人気を活用して日本精神を強調したということになろう。そんなわけで、石原慎太郎は自分の存在価値の大部分を弟に負っていた。かれの政治家としての遊説先には大勢の女たちも詰めかけたが、彼女らの目的は、慎太郎に会うことではなく、裕次郎へ自分の挨拶を伝えてもらうことだった。小生は石原慎太郎の遊説現場を目撃したことがあるが、集まってきた女たちは口をそろえて、「裕ちゃんによろくしね!」と叫んでいたものだ。

さて、フロイトのエディプス・コンプレックスは、個人においては性的リビドーのコントロールとそれの発展したものとしての道徳意識の確立をもたらす一方、集団レベルでは、宗教をはじめとした文化の形成につながる。とくに宗教はあらゆる文化の基礎となるものである。その宗教の起源についての議論をフロイトは、「トーテムとタブー」の中で展開している。それによれば、トーテムズムがあらゆる宗教のもっとも原型的な形態ということになり、それは象徴的な意味での父親殺しを発生の契機としているとするものだった。象徴的というのは、じっさいに父親が殺されたかどうかは問題ではなく、父親の絶対的な権力を息子たちが打倒することで、新しい協同体が形成され、その協同体の掟の形成にあたっては、父親殺しに伴う罪責感のようなものが決定的な役割を果たすとするものだった。

フロイトの理論をそのまま適用するわけにはいかないが、日本人論を展開する小論のような試みにおいては、なにかしら有益な材料を与えてくれるだろう。それをもとに敗戦後の日本文化の変形を考えるうえで、当時の日本でも象徴的な意味での父親殺しがあったと考えるのが便利である。この場合の父親殺しとは、天皇制の破壊をさす。

実際には、天皇は殺されたわけではないし、また天皇制も廃止されたわけではない。昭和天皇は戦後も生き続けたし、天皇制も象徴天皇制というかたちで存続した。だが、天皇はそれまでの名実ともに父親たる存在のあり方を失った。象徴天皇というのは、文字どおりシンボルであって、それ自体は何らの実体も持たないから、その地位に祭り上げられたということは、ある意味死んだと同然のことである。そうした意味での天皇の死には、日本人自身が主体的にかかわったわけではなく、アメリカによって強制されたようなものだから、天皇は外国人によって殺されたといってもよい。これに日本人が全くかかわらなかったというのは間違っているという見方もあるが、その場合でも、日本人が自らの手で天皇を殺したというよりは、アメリカの手を借りて天皇を殺したというのがふさわしいであろう。

こうした事情も、日本人の劣等感と、その現れとしてのパンパン・コンプレックスを深めたと思われる。日本人は、ただに戦争に負けただけではなく、自分らの父たる天皇の殺害をそそのかされ、あまつさえ女まで奪われて民族としての誇りを著しく傷つけられた。こんな事態は一民族のあり方としては、あまりにも異様である。しかし、こういう異様な事態は、日本人にとって初めてのことではなかった。太古の日本でも同じようなことが起きていたのである。だから戦後の日本人の劣等感は、太古の経験の反復ということになる。反復はこの場合脅迫的な性格を帯びているから、非常に強いインパクトを持つ。



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