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日本人のパンパン・コンプレックス(その三)


パンパン・コンプレックスは被支配感情を源泉としている。支配されているというのは、人間にとって不愉快なものだ。それは恐れと反感をもたらす。しかし反感は簡単には表出できない。そんなことをすれば、自分を支配している強者によって手ひどい扱いを受けるからだ。だからその反感は抑圧されざるを得ない。個人の場合においては、その抑圧はエディプス・コンプレックスをもたらす。エディプス・コンプレックスとは、子供にとって圧倒的に強大な父親への反感にその起源をもっている。その反感は抑圧されざるを得ない。でなければ父親によってこっぴどい仕打ち(去勢)をされかねないからだ。集団においては、抑圧にともなうコンプレックスはもっと複雑な形をとる。トーテミズムはその顕著な例だ。戦後日本におけるパンパン・コンプレックスも、集団的な規模での抑圧がもたらしたものだ。

パンパン・コンプレックスは、戦後日本において、突然変異的にいきなり生じたわけではない。その原型は古代にあった。神功皇后と応神天皇に関する記紀の記述から、それをうかがうことができる。

応神天皇には不可解なことが多い。応神天皇は神功皇后が生んだ子だとされる。応神天皇は一応、仲哀天皇と神功皇后との間に生まれたということになっているのだが、もしそうだとしたら、理屈に合わないことが多すぎる。記紀の記述に立脚する限り、その出生にまつわる矛盾は解けない。応神天皇は、仲哀天皇が神の託宣を無視したことをとがめられて死んださいに、神功皇后によって身ごもられており、やがて皇位につくと神によって予言されていた。しかし実際に生まれてきたのは、神功皇后が三韓征伐から帰ってきた後である。三韓征伐にどれほどの時間がかかったか、具体的なことはわからぬが、それにしても、すでに子を身ごもっていた神功皇后が、海をわたって朝鮮半島を征服し、日本に凱旋するまでには相当の時間がかかったはずだ。しかも応神天皇は、母親の懐胎中に皇位を継ぐべしと神に予言されていたにかかわらず、実際に皇位についたのは69歳の時だとされる。こうした不自然さがあるために、応神天皇は仲哀天皇と神功皇后との間で生まれた子ではないという推測が生まれた、その推測はさらに、応神天皇は実は海外すなわち朝鮮半島からやってきた征服王なのではないかとの憶測にもつながった。

じっさい、そのように仮定すると、矛盾は氷解するのである。神功皇后の三韓征伐はあくまでも神話の上でのことで、歴史的な裏付けはない。記紀神話では、神功皇后が新羅を懲らしめるために出兵し、朝鮮半島を征服したということになっているが、実はその逆で、日本が朝鮮からやってきた王によって征服されたのではないか。そこまで言わないとしても、朝鮮半島出身の男が、日本の皇室を継いだとは言えそうである。記紀神話が神功皇后の三韓征伐にこだわるのは、応神天皇が朝鮮からやってきた支配者であったことを暗示しているのではないか。

応神天応の時代には、朝鮮半島から大勢の帰化人がやってきて、日本文化の発展に寄与したといわれる。それは朝鮮半島を支配した日本人が、朝鮮の人々を日本に連行してきたということにされているが、実際は逆で、征服王たる応神天皇が、朝鮮半島から大勢の人々を伴ってきたのではないか。記紀神話には、天の日矛の件があって、朝鮮半島からやってきた人々が日本に帰化したとなっているが、それは応神天皇の時代に起きたことを、数世代前の時代に投射したものではなかったか。

以上の推論を踏まえれば、次のようなシナリオが成り立つ。仲哀天皇は、じつは朝鮮の勢力との戦いで死に、勝者たる朝鮮の王が、その位を継いで日本の天皇となった。その新しい天皇はおそらく、自分の権威を日本人に認めさせるために、神功皇后の養子を装った。そう考えれば、応神天皇にまつわる不可解な部分が解消するのである。応神天皇といえば、日本では八幡神として祭られ、武神としてあがめられてきた。それは応神天皇の征服者としての側面を強調したものであろう。

応神天皇と神功皇后をめぐる神話が暗示的に物語っているのは次のようなことである。まず、外来の征服者が日本の天皇を殺した。しかしその新たな征服王は、自分自身の権威で日本をおさめるのではなく、日本の女である神功皇后の力を最大限活用した。それが有効に働くために、自身が神功皇后の養子であると名乗ることも辞さなかった。応神天皇が名実ともに権力を確立して正式に天皇の位につくのは69歳のときである。征服からかなりの時間がたっていたはずだ。

以上から見えてくるのは、まず仲哀天皇の殺害という形で、太古の日本で父親殺しが行われたということである。その後に、神功皇后という女性が、日本の統治の大部分を担った。フロイトの理論では、父親殺しは息子たちによってなされ、その後に父親による専制的な支配にかわって、息子たちによる共同統治が始まるということになる。このフロイトの図式は古代日本には当てはまらない。古代日本では、父親たる天皇を殺したのは外国人であり、息子たちはその事件の圏外に置かれた。したがって父親がいなくなったあとの統治を自分たちで担うことはなかった。統治を実際に担ったのは、女性であり、かつ民族の母というべき神功皇后だった。外来の支配者たる応神天皇は、神功皇后を中心とした統治システムに乗っかっただけなのであり、その統治システムとは、男性原理ではなく女性原理に基づいたものだった。

このパターンは、敗戦後のパンパン・コンプレックスの形成と非常に似通っている。パンパン・コンプレックスは、父親を殺したアメリカ人への劣等感と、女性優位の傾向が強まったことを主な内実としている。なかでもより強い影響力を持ったのは、女性の力が大きくなったことだ。女性たちは、征服者たるアメリカ人の力を背景にして、日本の男たちを見下した。見下された男たちは、戦前のように威張り返すわけにもいかず、ただただ自分の無能を思い知るばかりであった。こうした女性上位の傾向は、非常にレアな現象のようにも思えるが、実はそうではない。日本人は本来女性上位の傾向を強くもった民族なのである。

古代の日本が女系社会であり、女性の権威が非常に強かったことはかなり確実なことである。第一、女神を祖先神としてあがめている民族は日本以外にないのではなかろうか。古代の日本で女性の地位が高かった理由はいろいろ上げられる。強い絆で結ばれた原始的な共同体が女性を守る役割を果たしていたこと、また、祭祀やさまざまな儀式において、女性が巫女として活躍したことなどだ。そのほか柳田国男が「妹の力」で解明してみせた日本女性の伝統的な役割というものも大きな要因となったであろう。

こうしたわけだから、パンパン・コンプレックスは、歴史的に見ても相当の理由があり、また、女性を大事にする日本の民族性にもかかわりがある。ところが、敗戦後にその現象の渦中に置かれた多くの日本人、とりわけ男の中には、直近の(男性優位の)風習が絶対的なものに思われて、パンパン・コンプレックスに伴う女性上位の傾向はなかなか受け入れられないものとして映った。そうしたイライラが、石原慎太郎のような男には、我慢ならなかったのは一理ある。石原は一方では反米愛国感情に訴えながら、他方では男の復権にこだわったと言えるのである。石原にとって男とは、女の上に君臨するものであって、女の尻に敷かれるべきものではなかったのである。



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